・ザ・ボーダー(ドン・ウィンズロウ著、田口俊樹訳、上は2019年7月19日第1刷発行、1269円+、下は2019年7月20日第1刷発行、1324円+)
・米国の作家がメキシコ麻薬戦争を凄まじい迫力で描き出した大河小説3部作の、掉尾を飾る巨編です。対象とする期間は2012年の12月から2017年4月まで。麻薬カルテル間の勢力争いではハリスコ新世代カルテル(本書ではニュー・ハリスコ・カルテルとなっています)がシナロア・カルテルに匹敵するまでに台頭し、扱う商品ではコカインに代わってオピオイド系の麻薬とくにフェンタニルなどの合成麻薬がメジャーになり、そして最大の市場である米国ではドナルド・トランプ(本書ではジョン・デニソンとなっています)が政治の檜舞台に躍り出た、そんな時期です。第1部の「犬の力」(邦訳は2009年に角川文庫で)、第2部の「ザ・カルテル」(邦訳はやはり角川文庫で2016年)に続いて本書もメキシコ麻薬カルテルの実像を鮮烈に伝えていて、読み応えは超重量級です。加えて本書は、米国の政治や中南米からの移民たちにも焦点をあてていて、前の2作より一段とパワーアップしたエンタメ小説になっていると思います。
あれこれ御託はいらないのですが、特に触れておきたいことをいくつか。一つはドナルド・トランプとその娘婿ジャレド・クシュナー(本書ではジェイソン・ラーナー)に対する容赦ない悪罵です。
――まさか自分の国があんな男に投票するとは。あんな人種差別主義のファシストの悪党に。大言壮語のナルシストのペテン師に。女性を公然と侮辱し、障害者を笑いものにし、独裁者どもにすり寄るような男に。正真正銘の大嘘つきに――
トランプが当選した大統領選挙の翌朝、ケラー(本3部作の主人公。DEA=麻薬取締局の工作員から本書ではDEAトップになりました)は目を覚ましてこのように思うのですが、これは著者であるドン・ウィンズロウの正直な嘆きでもあったと感じます。
それにしても原著の出版は2019年。トランプが当選した2年後、まだ1期目の半ばにあった頃です。つまりウィンズロウは、現職の最高実力者を真っ向からディスったわけです。痛快です。まあ真っ当な人なら誰もが同意するだろう罵倒だと思うのですが、にもかかわらず米国の多くの有権者が「あんな男」に投票した事実には、つくづく考えさせられます。同時に、最高実力者をここまでこき下ろすエンタメ小説が堂々と出回る米国の懐の深さには感じ入りました。
本書はさらに、クシュナーが麻薬カルテルの資金に頼ってビジネスを展開している、との非難まで投げかけています。これがどこまで本当なのかは分かりません。ただ、クシュナーが著者を訴えたという話は聞こえてこないので、案外と真実に近いのかもしれません。もちろん、本書の宣伝材料になりたくない、と冷静に判断した結果か、とも推察します。いずれタイミングを見計らって、トランプ一派がウィンズロウに報復を仕掛けるのでは、と心配です。権力亡者はえてして執念深いので。
なお、銃規制や麻薬対策などでウィンズロウは比較的リベラルな見解の持ち主で、その政治観は共和党よりは民主党に近い印象があります。が、明確な民主党の支持者というわけでもないようです。たとえば「犬の力」でウィンズロウは、北米自由貿易協定(NAFTA)に批判的な考えを強く打ち出していました。NAFTAはいうまでもなく、ビル・クリントン政権が(民主党の本来の支持者である勤労者層を裏切り、ウォール街の手先となって)推進した政策でした。
本書から強い印象を受けたことの一つは、ベトナム戦争が米国にもたらした痛みです。冒頭と末尾に、ワシントンにあるベトナム戦争戦没者慰霊碑が登場するのです。あの戦争を主人公は「不毛な戦争」だったと考え、それゆえ余計に死者たちそして遺族たちの「途方もない喪失感」に共鳴してしまうのですが、これは太平洋戦争に敗れた後の日本人の思い、とくに戦中派の人たちの思いに通じるところがあるのではないでしょうか。このところ反トランプの旗手みたいになっているブルース・スプリングスティーンの代表作、「ボーン・イン・ザ・USA」にも通じるように感じました。
と同時に、ビル・クリントン、ジョージ・ブッシュ、ドナルド・トランプが揃ってベビーブーマーであり、徴兵制の下でベトナム戦争に従軍していてもおかしくなかったのに、揃いも揃って戦場には行かなかったことを、思い浮かべずにはいられませんでした。そしてベトナム戦争は、米国社会に麻薬が深く浸透した要因でもありました。ウィンズロウが本書の始まりと終わりにベトナム戦争戦没者慰霊碑を配置したのは、深い意図があったのではないかと妄想した次第です。
また、本書を読んでいてふと「チャップリンの独裁者」を連想した瞬間がありました。主人公が演説(本書では証言ですが)で真っ当な意見をひたすらに語るところが似ているからであり、構成にも共通したところがあると感じたからです。
本書は邦訳もお目見えしたのは2019年でした。すでに「犬の力」も「ザ・カルテル」も読んで惚れ込んでいて、早くに手元に取り寄せていたのですが、読み始めるのは長らく躊躇しておりました。文庫とはいえ上下巻あわせて1500ページ超というボリュームの面からも、人間の悪意と残酷、社会の不条理を暴き出す内容の面からも、気力と体力が必要だとわかっていたからです。
が、今年2月にハリスコ新世代カルテルのトップであるネメシオ・オセゲラ(通称「エル・メンチョ」)がメキシコ軍による作戦の中で亡くなった、と伝えられ、遂に本書を読む気になりました。本書はエル・メンチョ(本書では「エル・マスティン=マスティフ犬」として出てきます)が台頭した時代を描いているので、ずっと先に進んだ現実の足場を確認するような気分で読み始めたともいえます。で、さっさと読んでおけばよかった、と後悔しております。まさかトランプに正面切って喧嘩を売っていたとは……。改めてウィンズロウという作家に敬意を覚えました。
著者は本書に続いて米国のギャングの興亡を描く大作を書いたあと、作家業を引退すると発表しました。麻薬対策や反トランプの取り組みなど政治的な活動に集中するため、といった理由でした。結局2024年にトランプは再選を果たしたわけですが、その後も著者はトランプ批判を展開しています。そして嬉しいことに今年1月、作家業への復帰を表明しました。
実は著者の中編を原作とする映画「クライム101」が公開中で、さらに「犬の力」シリーズなどの映画化プロジェクトも進行しているとのことです。ウィンズロウはこれから一層メジャーになるのでは、と期待しています。また、今年のアカデミー賞授賞式をみていても思ったのですが、ハリウッドには反トランプの人が結構いるように感じます。