頑張るというのは、人の期待に応えることではない。
「頑張って」と言われてプレッシャーを感じるのは、その人の期待に沿ってやらなきゃいけないという思考が頭のどこかの片隅にあるからだ。
しかし、そのやり方で頑張ったとて、その「頑張って」と言った相手は、自分が期待に沿うことの意味も多少込めて頑張った行動を果たして見るだろうか?
頑張っていることを認めるだろうか?
他人のものさしは人によって差がある。
相手の期待に応えなきゃと漠然と思うのは、少なからず、
"相手が自分が頑張ることによって、認めてくれるかもしれない"
という期待を込めているものである。
仮に反応が良くなかった時には、落ち込むだろう。
頑張ったと思えなくなるだろう。
それは相手に自分の評価を委ねている
"諸刃の剣状態"である。
そんなの間違っている。
これにいち早く気づけた人は、自分に自信が無い、という事がなくなる。
こうすれば自分に自信がつくかもしれないと思っていないだろうか?
「自分には何の取り柄もないんです」って言って、それが自分に自信の無い理由になっていないだろうか?
理由が無きゃいけないというのもおかしな話だ。
人を納得させる上で、何かしらの根拠が必要なのは、社会生活をしていく、コミニュケーションをはかる上では必須な要素だが、
自信を持っているかどうか、というのは自分自身でしか判断できない要素だ。
自分自身を納得させる為に、自分に理由を用意する必要があるだろうか?
例えばトイレに行くとき、理由が必要だろうか?
例えば話しやすい人、好みの人がいた時に、理由があっただろうか?
ないはずだ。
自己判断をしている時っていうのは、基本人は無意識の中で判断を下すのだ。
無意識の中で判断をして出来ているものは、特に何の理由もなく、自信があるから出来るのだ。
それが俗に言う"根拠の無い自信"だ。
根拠の無い自信というのは、
薄っぺらい理由なのに自信がある人を揶揄する言葉ではなく、
人に理由を説明する必要も無く、自分が分かっていれば良い、本能的な、無意識状態に近い根拠を元に、行動が出来る人間の事だ。
物事の出来る範囲は人それぞれだが、根拠の無い自信は全員が持っているものだ。
理由を活字にする事が出来ない根拠がある事が一番良い状態。
つまり、理由が無い、理由が浅いというのは、とても素晴らしい事なのだ。
例えば人が溺れている時に
「なんで助けたの?」と聞かれた時に
「こういうところがメリットに感じたから」と言って説明するだろうか?
「助けようと思ったから」
「そう思ったから」
と、大半の人は言うのではないだろうか?
こう考えれば、「そう思ったから」という理由は、最も説得力のある素晴らしい言葉だと思えるようになる。
人に対して、理由を説明出来ない事をマイナスに捉える必要は一切ないのだ。
そんなことよりも、
無意識下でそう判断した、自分にしかわからない、根拠をもっと大切にするべきだ。
要するに"頑張る"、という意味は、人の期待に応えることではない。
今までやってきているのは、頑張るという意味を勘違いしたまま"無理"をしていただけだ。
無理をする事でも、背伸びをする事でもない。
"頑張る"の本当の意味は、
自分で自分に期待している部分を、
自分が分かっていれば良いやり方で応えることだ。
頑張っているかどうかなんて、
自分自身が分かっていればそれで良いのだ。