★★★とてもAll Memberが60代とは思えないKISS 粋で最高★★★
皆さん、おはようございます。明日がHalloweenに迫ったOct 30ですが、BRUINでは特別なイベント等の予定はありません。しばらく、前からHalloweenの面白いネタを探していましたが、あまりパットした物が見つかりませんでしたので、存在自体がHalloweenな”KISS”のパフォーマンスをみてBRUINのHalloweenとしますので、ご覧ください。All memberが60代で最近来日したKISS、確か、先週TVのMusic番組に出演していたのをみました。日本の60代男性ミュージシャンでこんなに元気で粋な人たちはいないですよね。そんな感じで、A day before HalloweenはKISSの名曲を聴いて元気に仕事に向かってくださいね。まずは、知らない世代の方に彼らのご紹介から:
キッス(KISS)
キッス(KISS)は、1973年1月にアメリカで結成された、ハードロックバンド。特徴的な白塗りの化粧と奇抜な衣装でストレートなロックンロール~ハードロックを演奏する。巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やパイロテクニクスを多用することでも有名。彼らのファンは、キッスアーミー(KISSARMY)と呼ばれる。
キャッチフレーズは、「You Wanted The Best!? You Got The Best! The Hottest Band In The World, KISS!!(最高を求めていただろう!? お前は手に入れた! 世界一熱いバンド、キッス!!)」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。来日時にLIVEなどでよく使う言葉は「アナタハサイコー」
シングル、アルバム総売り上げは1億1000枚を超える。
メンバー[編集]
オリジナル・メンバー[編集]
- ポール・スタンレー(Paul Stanley) - リズムギター(&リード)、リード&バッキングボーカル
- 本名Stanley Harvey Eisen、1952年1月20日ニューヨーク・シティ、クイーンズ出身
- ジーン・シモンズ(Gene Simmons) - ベース、リード&バッキングボーカル
- エース・フレイリー(Ace Frehley) - リードギター(&リズム)、バッキング&リードボーカル
- 本名Paul Daniel Frehley、1951年4月27日ニューヨーク・シティ、ブロンクス出身
- ピーター・クリス(Peter Criss) - ドラムス、バッキング&リードボーカル
- 本名George Peter John Criscuola、1945年12月20日ニューヨーク・シティ、ブルックリン出身
現在のメンバー[編集]
- ポール・スタンレー (1972-現在)
- ジーン・シモンズ (1972-現在)
- エリック・シンガー(Eric Singer) - ドラムス、バッキング&リードボーカル(1991-1996、2001-2002、2004-現在)
- トミー・セイヤー(Tommy Thayer) - リードギター(&リズム)、バッキング&リードボーカル(2002-現在)
過去在籍したメンバー[編集]
- ピーター・クリス (1972–1980、1996–2001、2002–2004)
- エース・フレイリー (1972–1982、1996–2002)
- エリック・カー(Eric Carr) - ドラムス、バッキング&リードボーカル(1980–1991)
- ヴィニー・ヴィンセント(Vinnie Vincent) - リードギター(&リズム)、バッキングボーカル(1982–1984)
- マーク・セント・ジョン(Mark St. John) - リードギター(&リズム)、バッキングボーカル(1984)
- ブルース・キューリック(Bruce Kulick) - リードギター(&リズム)、バッキング&リードボーカル(1984–1996)、キーボード・ピアノ(1987–1992)
ツアーメンバー[編集]
- ゲイリー・コルベット(Gary Corbett) - キーボード(1987–1988、1990)
- デレク・シェリニアン(Derek Sherinian) - キーボード(1992)
来歴[編集]
ウィキッド・レスター[編集]
1970年ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズの元に旧知のポール・スタンレーが加わって、ウィキッド・レスター(WICKED LESTER)という5人組ロックバンドが誕生する(当初はレインボー RAINBOW という名前であったが、2回目のライヴを行った後に同名のバンドがいることを知ったため1971年に改名)。バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われなかった。
1972年にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だったエピック・レコードに契約拒否される。バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となる。
新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、クリスが加入。しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになる。
キッスへ改名 - メジャーデビュー[編集]
シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてエース・フレーリーが加入。1973年にスタンレーの発案によりバンド名をキッス(KISS)に改名した。クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われている(当初シモンズはインパクトを求めて"Fuck"というバンド名を考えていたらしいが、さすがにそれは止めたらしい)。現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成した。
1973年、1月30日にキッスとして初めてのコンサートを行う。当初はただの白塗りだったメイクも、次第に現在の形に近づいていった。この年、レコード契約をつかむために懸命に活動しながら、その一環として伝手のあったエディー・クレイマープロデュースの元、デモ数曲をレコーディングする。努力が実り、バンドはTVプロデューサーをしていたビル・オーコインの目に止まり、マネージャーとして迎えた。オーコインの働きにより、メジャーデビュー契約先はワーナー・ブラザース傘下で当時無名の新会社だったカサブランカ・レコードに決定、意気込んでレコーディング作業が行われる。シモンズは、とあるサーカス団員から火吹きを教わり、コンサートにおけるパフォーマンスとして取り入れたが、同年の年末コンサートにて火吹きを失敗し、自らの髪を燃やしてしまい、新聞で「ベーシストは頭に火をつけて演奏」と報じられた(なお、火吹きは誰がやるか決定する場面でシモンズしか手を上げなかったためシモンズに決まったが、本来誰がやるかは決まっていなかった)。
1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者(Kiss)』でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。しかし同年発表された2作目のアルバム『地獄のさけび(Hotter Than Hell)』も、鳴かず飛ばずの結果だった。
大ブレイクと黄金期[編集]
レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄への接吻(Dressed to Kill)』発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行う。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を(C'mon And Love Me)」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発する。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定する。
そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ(Alive!)』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。
翌年の1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した初期の名盤『地獄の軍団(Destroyer)』をリリース。同アルバムからのシングル「ベス(Beth)」が大ヒット(全米7位)する。初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。
同年、アルバム『地獄のロックファイアー(Rock and Roll Over)』発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン(Hard Luck Woman)」がヒットする。かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。
1977年、SNAKE ATTACK TOURと銘打った初来日ツアーを敢行。大阪厚生年金会館、日本武道館などを超満員にする(オープニング・アクトにはデビュー間もないBOW WOWが起用された)。初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、アンコールも含めて綿密に計算されたパッケージ・ショウであることがわかる。4月2日の日本武道館公演ではNHKによるビデオ撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映され、社会的大人気を獲得した。
同年、アルバム『ラヴ・ガン(Love Gun)』、『アライヴⅡ(Alive II)』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。『アライヴ2』からのシングルカットは、エースが歌う「ロケット・ライド(Rocket Ride)」がヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。
日本においては1970年代後半を代表するバンドとしてエアロスミス、クイーンと共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめた。
バンドのフロントマンであり「デトロイト・ロック・シティ」「ラヴ・ガン」など数々の代表曲を作り歌うポール・スタンレー、火吹きや吐血などの視覚効果で世間の認知度が一番高かったもう一人のフロントマン-ジーン・シモンズ、「ベス」や「ハード・ラック・ウーマン」といった大ヒット曲を歌ったピーター・クリス(black diamondもヒットといえばヒットである。)、独特のギタープレイと雰囲気で人気を集めたエース・フレーリーの4人とも、自分こそがバンドを成功へ導いたと主張し合っていたという(それでもシモンズ&スタンレー、クリス&フレーリーのグループに別れるのが常だった)。
特にバンドに意見を反映しにくくなっていったクリスとフレーリーのフラストレーションとエゴは酷く、成功により大金を手にした彼らはしだいに酒やドラッグに溺れていく(結果として、後にふたりはグループを脱退する)。
1978年春、2度目の日本ツアーを行うが、楽屋では物を投げ合い、つかみ合いの喧嘩が行われたという。このときバンドの人間関係は最悪な状態になっていた。 日本から帰国直後、煮詰まったバンド内の人間関係を修復し現状を打破すべく、またソロ活動を望むフレーリーのためにも、各メンバーがそれぞれソロアルバムの制作を発表、グループは人気絶頂でありながら当分のライブ活動休止を宣言する(既に1978年初頭にはソロアルバムのレコーディングを行っており、来日時にもスタジオを借りてレコーディングしていた)。スタンレーは後に、「ここでソロアルバムを発表して落ち着かなければキッスは確実に解散していた」と回顧している。
1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ(NEW YORK GROOVE)」(ラス・バラードの曲のカヴァー)がヒット。ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始める。
同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『ダブル・プラチナム(Double Platinum)』発売。
この頃には、単にレコード制作、ライヴに止まらず、NBCによる映画「KISS MEETS THE PHANTOM OF THE PARK(地獄の復活)」の制作、MEGO社から彼らの人形が発売、遊園地「KISS WORLD」の建設構想など次々バンド活動以外の企画が打ち出され、ハードロック・バンドというよりは、次第にファミリー向けキャラクター商品の素材と化していった。
1979年、グループとしては2年ぶりのオリジナルアルバム『地獄からの脱出(Dynasty)』発売。スタンレーがデズモンド・チャイルドを見出し共作したシングル「ラヴィン・ユー・ベイビー(I Was Made For Lovin' You)」は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同ナンバーは世界中で大ヒットを記録した(この後チャイルドはスタンレーの紹介によりボン・ジョヴィと共作し、世界的に有名なコンポーザーとなったが、スタンレーとの関係は長年続いていくこととなる)。しかし合わせて行われたDYNASTY TOURの観客動員は伸び悩み、やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える。
Have a wonderful day, Folks!!
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Oct 30.2013