嵐の前の静けさか。

日中は好天で、朝の洗濯物は午後2時頃には乾き、

庭のフェンスに掛け干した布団もいい具合に

殺菌され、心地よいふくよかさを取り戻していた。

が、4時位から次第に雲が増え、雲は灰色になり

うっすらと空を霞のように包んだ。

黄砂のせいもあるのだろう。

数キロ先の山並みが白い霧に包まれたように観えた。

風は生暖かいが、どんよりとした重みがある。

不快ではないが、防風や大雨の前兆を示すような

不気味な静けさが集落に鎮座する。

TVの天気予報で明日は暴風雨、

つまり春の嵐が来るというアナウンスに

リアリティを感じた。

三寒四温のど真ん中、彼岸の前の嵐。

そういえば昨年の彼岸の前日まで、

雨が2日間続いたような覚えがある。

定かではないが、確かあの彼岸の墓参りに

家族で趣いた朝、空がからりと晴れ上がり

ちょうど雨が上がってよかったねと、

母がうれしそうに迎えの電話の際に語った事を

思い出したからだ。

人の記憶はあいまいなものだ。

あいまいなだけに、

鮮明に脳裏に焼きついている映像は

余計にそれは確証性が高いと自己暗示をかけやすい。

彼岸の墓参りは家庭を持つようになってから

ほぼ、毎年行っている。

すでに20年近くも春分の日に、同じ事を

定例的にしていると、記憶は新旧、混淆して

さらにあいまいな自己暗示を

信じるようになる。

昨年の彼岸は本当に晴れたろうか。

その前日まで終日、雨が続いていたろうか。

ひょっとしたら、それは一昨年前の記憶と

交錯しているかもしれないから。

そうとはいえ、寺の本堂の裏手に広々を伸びる

霊場と、その入口から先祖が祀られた墓碑までの道のりは

まったくあの時と変わっていない。

同じ経路で同じ人数で、家族成員がめいめいに

水とお供えの花と線香を持ち、その場所にたどり着くと

まず合掌することも昨年も、一昨年も、

その前の年も不変だからだ。

考えてみれば、春本番の到来を何で感じるかといえば

たいていの人は黄砂とか桜とか、

卒業式を終えた親子が正装で街中を歩く姿を

たくさん見かけること、というけれど。

意外にも僕の場合は、彼岸の日の墓参りに

それを感じているのだと思う。

晴れていれば山並みは紫色に見えるし、

雲雀のさえずりが田畑のそちこちで聞こえる。

桜の蕾が開きかけて見える。

南中を過ぎたばかりの墓石は、

煌々と真上から陽光に照らされて

ご先祖様がご機嫌麗しく思えてくる。

子どもの頃は照れが先んじてできなかった、

墓碑に向かって故人を偲んで語りかけるという行為。

これが昨今、できるようになった。

正確には思わずしてしまうわけだが、

この瞬間に自分も妙に老けたなと

一呂の寂しさを覚えるものだ。

しかも線香の匂いさえ、心を落ち着かせられ。

時に自分はいつ死ぬのだろう。

いつまで生かせてもらえるのだろう。

などという、正解のない自問といっしょに


墓石の間で念仏を唱えていたり。

新しい生の季節、輪廻のスタートに戻る季節。

だからそれは春なのだ、と勝手に自分を納得させて。

今年の彼岸を2日後に控え、

僕にとっての本当の春の正体を思惑してみた。

息子は今週の終業式を終えると、

4月の春休み明けから6年生に進級する。

花の色はうつりにけりな。

時の流れはうつりにけりな。

人の彩りはうつりにけりな。

小野小町だったろうか、清少納言だったろうか。

あの方の書いた歌のワンフレーズの意味の深さを

やっと実感できる年になったのだ。

平安の歌人て、やっぱりすごいな…。



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