運命について<後編> | ブラウンの熊たち

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<前編のつづき>


思えばステージからこんなに近い席で演奏を鑑賞したのはおよそ10年ぶりだった。
2階席では気がつかなかった楽団員の表情、そして指揮者の息遣いがはっきりと聞こえる。
一番驚いたのは指揮者が「タタタターッ」とリズムを刻むようにして声を出していることだった。
(それが4列目に座る僕の耳にまではっきり聞こえていた。)

「こう演奏してくれ」と頼んでいる風でもなければ
「このテンポでいこう」と確認している感じでもない。

「こうでなければならない」という絶対的信念がただ告げられている。


そこに曖昧さはない。


僕にとって、異常な光景だった。



僕はなにか楽器を演奏できるわけでもなければ、特別クラシックに詳しいわけでもない。
ただ祖父が持っていた大量のクラシックCDを聞いていた時期がちょっとだけあるだけだ。

だからこそ、音1つ、音節1つにとてつもないこだわりをもって楽団員を率いる指揮者の存在に驚いた。
自分が分かり得ないフィールドのものであっても、信念を含んだ呼びかけは胸に突き刺さるんだと。

音にしろ、何にしろ、全ての決断において、
何が正しいか何が間違っているか、なんて決められるものではない。
僕は今までそう思って生きてきた。

なぜって全ての物事に絶対的な正しさも間違いも存在していないから。
いつもどこかに隙が生まれる。曖昧さが顔を出す。ひょこって。


でもだからといって、明日空から突然ピンポン球が降ってくるかもしれないように
明日になって、「絶対的な正しさ」が生まれないとは言い切れない。

だから僕らにできることといったら、自分の中で絶対に揺らがない道徳観をもってして
「正しさ」の原案を世の中に突きつけてやることなんだと思う。

受け入れられるか、受け入れられないか、なんて知ったこっちゃない。
でもそれを突きつけること、それこそが僕にとっては生きがいなんだ。



冬休みの間、僕は自分の在り方を決めて、その結果、休学届けを取り下げブラウンに戻ることにしました。
その上で、自分が履修しなければならないと思ったのは Natural Language Processing 自然言語処理、
Data Science データ科学、Robotics ロボット工学、そしてMachine Learning 機械学習の4科目。

3つはなんとか取れましたが、機械学習に限ってはそのクラスを取るにあたって
前もって必要な授業の単位を満たしていなかったので、冬休み中に交渉メールを書いて教授に送ると、
「それらの単位を満たしていなければ履修を認めることはできない。」と返ってきました。

ブラウンにおいてこんなこと、つまり、必要単位がないからクラスがとれない、なんてことは稀です。
メールを計10通送りましたが、最初の3通に対してはNOの返事、残りは返信すらしてもらえません。


初日の授業が終わった後、履修の交渉をするために教授のところまで話にいくと
案の定「認めないものは認めない」と邪魔者扱い、門前払いされる始末。

「あなたの授業を取るためならなんだってやります。」
と僕はいい、地面に膝と手をつくと、初めて教授がこちらに注意を払いました。

教室で土下座なんてこの先やる機会もないだろうと思います。
もちろん授業終わりなのでまだ他の生徒も残っています。でも不思議と恥ずかしさはありません。

履修できないなんていう選択肢は初めからないんです。
取るために思いつく限り全てのことを試す。
取っていない授業の教科書は全部読んだ。Courseraの授業も休みの間に取った。
なぜなら、そこに緊迫した『必要性/ニーズ』があるから。

それから15分間の土下座演説後、OKを出した教授の気だるそうな顔を忘れることはできません。


僕には野望がある。
それが実現すれば確実に人類は大きく進歩する。
既存のシステムがぶっ壊れて、世の中は僕が正しいと信じる方向に変わっていく。

僕と僕の仲間たちがそれをやらなくちゃいけない。
それが生み出されることなしに死にゆくことはできない。

だからそのために僕は今、勉強しなくちゃいけない。
今はまだできない「絶対にやらなくちゃいけないこと」をやるために、今勉強しなくちゃいけない。

だからもう誰も僕からペンを取り上げることはできない。
だれかが取り上げようものなら指に噛みついて、ちぎり取ってでも奪い返してやる。

これは僕の、僕だけのペンだ。


勉強は何かから逃げるための手段ではないし、不安を解消するためのものでもない。
勉強はいい大学に入るためにするものでもなければ、いい会社に入るためのものでもない。

勉強は今日できないことを明日できるようになるための手段だ。
勉強は今日知らなかったことを明日知っているための手段だ。


なぜ勉強をしなくてはならないのか。
勉強をしなくてはならないことなんて、小学校中学高校とほとんどないはずです。
勉強を学生がするのはしなくちゃいけないからじゃなくて、しないことが恐ろしかったり、
勉強することで得られる他者からの評価を欲しているからだったり、返却された解答用紙に
0が2つ並んでることに満足感を得たりするからだったり。

なぜ勉強しなくちゃいけないのか、と考えることこそが、勉強をウォンツの領域でやっている、証明です。
勉強をしなくちゃいけない理由は誰からも与えられない。誰かに何を言われたって勉強しない自由はある。
それを多くの人が好き好んで理由もわからないいままやっている、という現実。
いい大学に入らないと…いい会社に入らないと…そんな後ろめたい動機で勉強「したく」なる。

なぜ勉強しなくちゃいけないのか。
はっきりと答えられるようになったとき、初めて、勉強を「しなくちゃ」いけなくなる。

だから、本当に勉強をしなちゃいけない日が来ることほど幸運なことはないと僕は思います。



あっという間に30分が過ぎた。
第四楽章も終わりに近づいている。

目の前で起こっている事象が常軌を逸したこだわりと共に生み出されていることに気づいてから、
3楽章分の時間が経った。もはや音楽を聴いているというより胸ぐらを掴まれながら目の前で
叫ばれているような気分になってくる。なにかメッセージが発されるたびにステージから向かい風が
感じられて、表現しきれない心情を汲みとるように涙がテンポ良く流れ出てきた。


ブラウンに帰らなくちゃいけない、と思った。
勉強しなくちゃいけない時が来た、と思った。



指揮者の唾が飛んでいるのが見える。チェリストの額に汗が滲んでいる。
弦がはち切れんばかりにバイオリンが鳴り響き、ティンパニが躍動する。
ようやく終わるんだ、と思った。今以上に相応しい瞬間なんてどこにも見当たらなかった。


気がついたらブラボーと大声で叫んでいる自分がいた。
初めてのことだった。こんなのキャラじゃないな、とどこかで思う。

でも、これでいいんだと僕にはわかる。鳴り止まない喝采がこだまする。
目をつむって耳を澄ませると、口の中に懐かしい苦味が広がった。


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以上、最後の投稿。
小谷篤信でした。