デートの時、
小食の女子。
大概家に帰ると
ドカ喰いしてる。
皆さん、ども。
さて、コロナのお陰で、
店に籠ることが多い今日この頃。
たまには、童心にもどって
童話でも読もうかと思い、
宮沢賢治の、
注文の多い料理店
読んだ。
まぁ、御存じの通り、
彼の生前唯一出版の
童話である。
で、
中学の時に読んだときとは
違ったんだよな、
最後に大犬に助けられて
よかったなぁと思ったあの時とね。
この童話集の他の作品もそうだと
思ったのは、
例えば、
猟師がしばしば山の中で体験する世界、
ふとぼんやりして、
しかし自分がいままで
体験しているように思ったとか、
自分がとてつもないところを
歩いていたとか、
いくら歩いても、元のところに来たとか、
猟師とか山の人たちが
体験する幻想性、
幻覚性が非常に基本的なところに
あるんじゃないかなと思った。
もちろん、彼の故郷、
岩手の民話もふんだんに入れ込んでる。
ただ、何となく、
その宮沢賢治の
凝りに凝った世界を、
俺は
少なくとも大人の時期に
差し掛かったときに、
捨ててしまった気がしたな。
時々さ、
何かに長けた人が
「たまには童心に帰って」
というような言い方するけど、
(俺もだけど・・。)
俺はそういうことをまったく信じてない。
童心なり、
あるいは童話なるものは
再び帰ることができないと思ってる。
宮澤賢治に童話として
主張をさせるかどうかは別として、
童話性の世界ってのは、
個々人にとって、
生涯のある時期に
必ず通過することは
間違いないんじゃないかな。
だからこそ
そこに普遍性というものが
あるんだろうと思う。
だれでもが
通過するに違いない。
でも、
再びそれを体験することは不可能だな。
帰れない世界だからこそ、
童話性としての
文学というものが
非常に貴重な、
もしくは
重要な内容を持ってるとも思うよ。
ついでに話すると、
一番有名な
銀河鉄道の夜。
主人公のジョバンニが、
母親の牛乳が来ていないので牛乳屋へ行くわけ。
牛乳屋へ行って、
その牛乳屋で、あともう少したってから来てくれと言われ、
ちょうど星祭りの夜で、
祭りへは行かないで小高い丘の上にいく。
そして下に星祭りをやっている町の灯が見える。
さらに騒音が聞こえる。音楽が聞こえる。
そういう丘のところで
ジョバンニが非常にスムーズなかたちで
幻想の世界に入っていく。
そしてきらびやかな世界の旅行とか汽車に乗る。
そしてさまざまな体験をする。
非常にスムーズに銀河を飛び行く
列車鉄道に乗り、
非常にスムーズに幻想からハッと覚める。
そのままスムーズに現実の世界に戻ってく。
そして同行してた友人の死を知る。
大人になって読むと、
つまり他界へ行ってしまい、
そしてまた他界を超えて、
非常にスムーズに現実の世界に接合される。
このスムーズさには驚く。
違和感ないから。
民話の世界では必ずあの世の向こうまで通わなくて、
引き返してハッと意識が覚める。
引き返さなかったらアウトだし、
引き返したら意識が
覚めたというふうになるのが普通。
『銀河鉄道の夜』では
そういうふうに引き返したという感じ、
つまり幻想の世界と
現実の世界とは違うものだという感じを与えない。
そういう意味で
宮沢童話は、
凝りに凝ってるんだな。
子どものころに読んだ感想、
銀河鉄道に乗って、
綺麗な場所を想像しながら
いいなぁと思った
童心には戻れないが、
たまに童話読むのも
感慨深いものあるなと
感じた爺でした。
今日はちょっと堅い話だったね。
またエッチな話すっから~
今日はここまで。
じゃ、またね♪