ブスは3日では慣れない。だいたい5年はかかる。
皆さん、どーも。
なんか土曜なんだけど、ちょうど中だるみの時間帯できちゃったんで、久々に歴史の真実をやろうかなと。
で、実は俺、日曜の大河ドラマ大好きでね、毎年の主人公楽しみにしてるわけなんだけどさ、どうしても出して欲しい人物が、本日のお題、「立花宗茂」。
多分、なかには、それ誰なん?
はい、ごもっとも。
でも、少し歴史ファンなら、彼の業績・人物・武士としての生き様、または実父の高橋ジョウ雲や継父の立花道雪なんかまでご存知だと思うんだけどね。
また、関ヶ原の合戦後、改易の後、また大名に戻れた唯一の人でもあるんだわ。(厳密に言うと織田の老臣、丹羽長秀の長男、長重がいるんだけど、この際、どうでもええわ)
さて、この人、かの豊臣秀吉に東の本多忠勝、西の立花宗茂と言わせたほどの戦上手でさ、あの徳川家康が、関ヶ原前夜、一番気にしてた人物なんだよね実は。
で、今日の歴史の真実という流れになってくるんだけど・・・・・。
徳川家康が率いる、東軍がなぜ大垣城の石田三成を攻めず、関ヶ原に 引っ張り出したのか?皆も知っての通り、家康は攻城戦は不得意で、野戦で一機に勝利を つかみたかったためと、大多数の歴史解説ではそう結論づけてるよね。
それで、徳川秀忠が関が原に間に合わなかったのは、だれもが知っている史実。
すこし話は戻り、小山評定から上杉討伐を反転し豊臣恩顧の各将を西に向 かわせたのに、家康は江戸に入ると一月以上江戸を出発しなかった。というより、出来なかった。
全国の大名に対して、せっせと味方したら恩賞はずみまっせの書状を送った。事となってる。
ここまでが、物語としての関ヶ原。 史実は、小山に出陣していた徳川軍が本軍で、そのまま秀忠が率いて東山道を西に直接向かわせている。
江戸に戻った家康は、江戸に残った兵力を出来るだけ多く集めるため、一月以上も動けなかったんだな。
集めた兵は、農民徴収兵がほとんどで、3万と言われてるが、実際は井伊直政隊、本多忠勝隊、松平忠吉隊の 5000名程度が戦闘集団で、あとは、引退した老兵も多く弱兵だった。
ともかく、人数は揃えたので、西に東海道を向かう。岐阜の赤坂に着陣し、周囲の戦況報告を受け、家康が一番気にしたのが、大津城の攻防戦だったのよ。
なんでか?
落城寸前の大津城が落ちれば、西方の攻城軍が当時 大垣城に居た、石田三成に合流してしまう。その前になんとしても、一合戦 して勝利を得る必要があったのよ。その為、秀忠の徳川本軍の到着を待たず 関ヶ原に進出したのね。
その大津城の攻城には、立花宗茂、毛利秀包(ひでかね)→(この人がもし小早川家を継いでたら・・・って逸材) が担当してた。
大垣にそれらの猛将が合流しても、秀忠本軍が到着すれば 兵力では上回るわけで、通常の思考なら本軍到着を待つ。
大津城が落ち、赤坂での家康の逸話が実際書面で残ってんだけど、立花らが合流したら、豊臣の諸将では勝ち目はないだろう、到着する前に一戦。
負けたら、被害は豊臣恩顧の大名であり、家康は後方に退いて、徳川秀忠本軍 と合流すれば、まだ勝機は出る。というある意味博打にも似た戦略で、関ヶ原 に進出したのが事実なんだな。
ところが、わずか半日で決着した関ヶ原。
立花隊、毛利秀包隊は、関ヶ原まであと一日の 場所まで迫ってたんだよねぇ。これが。
この一日差が結局、江戸時代260年の歴史に繋がってくわけ。
そんで、戦後、改易されるわけなんだけど、彼の愚直なまでに自らの武士道を貫いた名将を惜しみ、家康は旧領に戻すってことになる。
でもさ、皆からしたらだよ、こんな素晴らしい武将が何故ドラマ化とかにならないんだろって思うよね?普通に。
まぁ、これは俺の独断偏見だけどさ、朝鮮出兵の際に、小身ゆえの(この当時は)僅かな手勢で明の大軍相手に圧倒するほどの活躍を見せるんだけど、惜しむらくは、唐入りが朝鮮への侵略戦争であるため、イメージが悪くてさ、この話を題材にしたドラマや映画がほとんど難しいのかなと。(ほら、デリケートな問題含んでるからさ、対外的に)
だからこそ、ジェットコースターのように浮き沈みの激しいドラマチックな人生をおくりながら、同世代の伊達政宗の認知度に比べると天地の差があるのが非常に残念なのよ爺は。クソッ
最後に、彼は、この人の真骨頂、愚直な武士道を貫き、その後は徳川家に尽くす後半生を送る。
あの大坂の陣から、島原の乱までね。確か島原のときなんか、70歳越えてて、一揆勢の猛攻に浮足立つ幕府軍にあって貫録の違いを見せつけたりしたみたいよ。カッケー!
マジで、男が惚れる漢ですなー。
て事で、今回はこれでお開きと。
また歴史もんはやりまっせー♪
じゃ、またね。