今日は発作がすでに2回。



7時と、13時から、、現在進行中、、



『喉がカラカラで息ができない。

死んじゃう!救急車呼んで』


もちろん救急車を呼んでも治療しようがない


何度か救急搬送されたけど

ベッドに寝かされていただけ、とか、

栄養点滴のみで

専門的な治療なく帰された経緯がある


母はその事に対して

不満たらたらだったのに、

それすら忘れてしまい、

苦しくなると

『救急車で連れてって』というのだ。


唾液が出づらいのは、老化によるものだ。

それを何度言われても

『そんなはずはない!私は大変な病気にかかっている』

という

母のネガティブすぎる思い込みが強くて

自分が老いた事を認めないのだ。


もし、私なら、こんなに苦しいんなら

自然に身を委ねてもいい

それで本当に呼吸が止まってしまうのなら

それは寿命というものだ

と、私は、頭ではそう思っている


でも母は生きる事への執念がすごい


人を巻き込もうが

何をさておき自分は助かりたい


そんな風にも見える




一通り騒いだ後、

突っ伏してすすり泣き、

何やら訳のわからない事を口走る、、


これを落ち着くまでみていなければならない私はどこまで耐えられるのか、、


耐えかねて母を見捨てたら後悔する。

だけど一緒にいたら私の心臓も壊れそう。


二階では、弟夫婦の高らかな笑い声。

ふたりは何日も母の顔を見ることすらない。


この10年、二世帯で母と同じ家の中に住んではいたけれど、

弟夫婦は

母の身の回りの手伝いをする事もなく、

母はずっと孤独に暮らしてきた。


母が元気で仕事もバリバリしている間は

それでもよかった。


でも、やっぱりご飯を1人で食べる寂しさ、

二階に人の気配はするのに

その会話に混ぜてもらえない寂しさは

少しずつ積もっていたと思う


母が病んでからは

弟夫婦はますます母から離れていった


見るにみかねたわたしは

母の元に飛び込んだ



母が苦しんでいることも

そのそばで私がどんなに涙を流していても

二階の人は同情もしない


相談しても

『そんなのよくある事だ』

『相手にしなきゃいい』

それで終わり。


そうかもしれない。

世の中には、老いた親はゴマンといて、

介護は社会的な問題となっていよう


だけど、【気持ちに寄り添う】って

大切だと、私は思う。




なんとも虚しくて悲しさがこみ上げてくる。

家族が二階にいるのに

助けを求められない



母のこの『喉がカラカラで、、』

○○病院に連れてって』は、

認知症によるものというよりは

鬱から来ている。


認知症は、進行するもので諦めなければならない部分、でも鬱の症状は軽くしてあげられたらいいと思っている


思っているけど、、

思っているけど、

毎日毎日、目の前で半狂乱で取り乱す母をみるのは、、、


私も、壊れそう


誰か、助けて!って、言いたい


でもそしたら母と同じだ