2015年、大晦日です。


今年は12年ぶりに役者をやりました。それが一番のニュースでしょうか。


10周年という事で、まずは高橋班が6月に「イーハト―ブの魔法の詩」を上演。


ブローダーハウスの舞台を知り尽くした高橋。


ブローダーハウスで出来る限りの効果を演出しました。


高橋清志率いる、KsCompany。高橋主宰の劇団。   http://kscompany2001.jimdo.com/


第1弾に相応しい、美しく、若々しい舞台に仕上がりました。




第2弾は「復活!!森丸シスターズ」という、網野治之書き下ろし作品。


これは、スタッフの主に経理担当の小野広子班。


小野は70歳こえた年齢ではあるのだけど、とにかくパワフルで意欲満々。


もともと、公演目的ではなく自主稽古という形で練習を重ねていました。


日の目を見ない芝居の稽古・・・これは一つ10周年記念公演にやってはどうか・・・


と、私が話を持ち込んで、なんだかんだ、いろいろありまして9月に公演の運びとなりました。


ただ、出演者が2人。


それでは到底観客動員が出来ないと、「私も出ます。客寄せパンダやります!」言ってしまった


が運の尽き。


12年ぶりに、それもブローダーハウスで初舞台を踏む羽目になったのです。


なんと言っても出演者の女優(?)3人、合わせて200歳に到達せんばかりの年齢。


私は3分ほどのゲスト出演程度の出番ですしたが、2人は約1時間45分、


漫才師のテンポのいる難しいセリフを、見事にやり遂げたのでした。



そして、いよいよ2月12日から辰巳班による「おじいさんのすべり台」です。


2006年2月11・12日にブローダーハウス「動の空間」はオープンしましたので


ちょうど10年目という訳です。


これで一連の10周年記念公演は完了となります。



2015年は、その第一弾の6月に孫二人目が。


そして2月を控えて1月には、三番目の孫が誕生します。


とにかく身体がいくつあっても足りないくらい忙しい一年でした。


また来年も公私ともに忙しくなりそうです。



10年を超えて、また心新たに第一歩を歩んでいきたいと思います。



2016年もブローダーハウスをどうぞよろしくお願いいたします。



まったく、サボるのもいい加減にしろ!ってブログですね。

御無沙汰してます。別に死んでません。

この歳になったら、生存証明のためにも最低月一で更新すべきですね。


まずは今年、2015年はブローダーハウスの10周年になります。

2005年6月にブローダーの建物を手に入れて、その後、改修工事。

8月27日にはお世話になった方々を招いて、披露パーティをやりました。

そして、9月1日1階の静の空間をオープンしました。


ただ、忘れもしない7月7日に、検査結果が出て乳癌が発覚。

建築業者に任せて8月3日に手術したのでした。

ですから、9月1日以降、静の空間で夫の親友の書道展、続いて私の友人の写真展を開いて、そのあとは開店休業でした。2005年いっぱいは抗癌剤投与と放射線照射で年末まで病院通いの日々でした。年末で一連の治療を終えたは良いが、その後もしばらくは1階での営業しかできないと思いこんでいました。

しかし、助けの神が現れて、現、舞台部の辰巳さんですが、そんな私の状況を伝え聞いて、声を掛けてくれて劇場の方の設備はすべて彼が整えてくれたのでした。

私が一人でやっていたら、黒幕平台などどこに注文したらよいかもわからない状態でしたから間違いなく寸法も間違え、何倍もの設備資金が掛って、とんでもないことになっていことでしょう。今でも、その時助けていただいた感謝は忘れたことがありません。

そして、辰巳さんとともに最初に雛段を作ってくれた丸山さん、その後、自ら劇団をもち劇場パラータの小屋番の高橋さんは強力な助っ人になってくれました。今でもこの3人からはブローダースタッフとして絶大な協力をもらっています。

もう一人、小野広子さん。劇工房燐で一緒の仲間でした。この劇場ができると同時に、小野さんと私は劇団をやめて、小野さんは経理として参加してくれました。小野さんは頭が切れる人で、私へ手厳しいアドバイスをくれますが、相性がいいというのでしょうか、彼女の言うことは納得がいき、素直に聞き入れることができます。それに小野さんの意見に反し、最後に私がどんな決断を下しても、彼女はそれを尊重してくれます。私の見落とした部分の指摘をしてくれる彼女をとても信用しています。


ほんとうに、私は支えてくれるスタッフに恵まれました。

私自身はなぁ~んにも出来ないのです。ただ、芝居好きなだけ。若い人が頑張っている姿を見るのが好き。

とにかく、私一人ではとてもここまでやって来られなかった事は確かです。

10年というのはすごい事ですね。

何かで聞きましたが、起業して1年もつ会社は3%、10年もつのは0.3%なのだそうです。10年前まではただの平凡な主婦だった私が人生で初めて起業し、特に大きなトラブルもなく10年も続けられた事は、今でも夢のようです。

振り返れば確かに10年は経ったので、ブローダーの歴史も積み重なり、個人的な生活もずいぶん変わりました。


今年1月23日に、世田谷区の保健所から検査にきました。

劇場に保健所?なにを調べに来るんだろう・・・

お役所がやってくるというのはなんともいい気持ちのものではないですね。

二人連れでやって来たお役人は、建物、換気設備トイレの数などを確認して、2階の換気に付いて指摘を受けたものの、その後、換気扇を改善し、もう一度確認に来て、興行場法に則った施設としての認可を受けました。

ブローダーハウスは法令基準から正しい多目的ホールというお墨付きを頂きました。

そうなると、ますます堂々と胸を張ってみなさまに使って戴けることになるので、10年のけじめとして箔が付いた思いがしています。


なぜ、この期に及んで?という疑問もあるけど、前に述べたように1年で潰れる店が多い中で、10年続いたがために保健所の目に止まったようです。

「今、ホームページを拝見していますが10周年なんですね」と電話口から開口一番いわれました。

役所も忙しいから、毎年数知れずに芽を出しては数年も続かないお店をいちいち調べて回る訳には行かないのでしょう、と理解しました。10年経ったから来たのでしょうね。そうそう放ってはおけないと。

これで劇場としても劇場主としても安心できます。


10周年記念公演を企画しています。

まずはブローダーハウススタッフが3班に分かれました。

それぞれ企画し、やりたいものをやります。


第一弾は K’s companyという劇団を持っている高橋組

6月20日21日と「イーハトーブの魔法の詩」という作品です。

ダンスあり、メルヘンの世界へ誘います。


第二弾は10月16日~18日 「復活!森丸シスターズ」

という題名。小野班、年齢層の高いメンバーでがんばります。

歌あり◎◎あり、特別 出演者あり。

抱腹絶倒の喜劇です。


第三弾は 現在日時未定 2016年2月までには上演します。

辰巳班の作品 ベテランの出演者、現在台本執筆中です。


また、進行状況をお知らせいたしましょう。




2014年も残すところ2か月というのに、今年初のブログになりました。


前の記事から時は過ぎ、息子は去年の9月1日に披露宴をやりました。


その後、子育てを終えた一人暮らしの家は細々した部屋ばかりで、物置と化し、


子育ての残骸が山の様でした。


30年を経とうとしている家なので、数年後にはリフォームをしようとは考えていましたが


先立つものもなく、2年後にはどうにか金策もできそうだと目的をもって予定していました。


ところが、7月のブローダーハウスのご利用が一組もなく、また5月に私の本業である貸間の


一部屋に空きが出ました。


そこで、突然 思い立ってありったけのお金を費やして自宅のリフォームを決心しました。


ですから、今夏はめちゃくちゃ忙しくて・・・でも、今でよかった!


この先ではとても体力がなかったと思います。


2トントラック山積みの生活廃材。


私もそろそろ人生締めくくり、人生の最終章をかっこよく過ごしたいと思いました。


この先の老後の家として、不用品ばかりで埋もれた生活を一新し、この際、身辺をしっかり整理して


生活を身軽にしようと思いました。


空いた6畳一間の貸室に移り5月末から解体に入り、8月のお盆前に完成した家に


戻ってきました。



ゆっくり新居の整理をしながらも、これ以上年が往ったら、大事なものをどこに入れたかの記憶も


忘れそうです。


体力、気力、記憶ともに、今しかなかったと思っています。認知症になる前で(笑)


しかしながら、この夏は疲れました。



どうにか やっと新居も落ち着き、慣れ、快適に生活しています。


11月10日からは毎年恒例の 私の企画「手づくり作品収穫祭」が始まります。


夏過ぎに疲れが出て、遅れてしまった「ごぜ唄が聞こえる2015」に今とりかかっています。



なんと、一昨日連絡をいただきまして、ブローダーハウスのごぜ唄の事が『本』に載りました。



川野楠巳氏 著 「瞽女 キクイとハル」




ブローダーハウスの聴衆という一説があります。


そこになんと!顔写真入りで私とブローダーハウスの事が書かれています。


瞽女唄と今まで7回関わって、私の事が書物に残るなんて、こんな光栄な事は無いです。


瞽女唄に惚れて、萱森さんに惚れて、少しでも多くの方に知って欲しいという思いでやってきた7年です。


私の仕事が、文字として残されるとは 予想外の展開で意外な思いがしています。



私の今まで関わった芝居という仕事は、その場で消えてしまう芸術です。


何度、絵画の上手な方や、書や、残る芸術作品を羨ましく思ったことでしょう。


今でこそ、ビデオやDVDで姿が残りますが、演劇という同時性の感激はとても伝わるものではないです。


娘が、前に「ママが役者だった事を映画に出して残したい」と言ってくれたことがありました。


残らないから良いといえば言えるかもしれない。


昭和の舞台役者には 杉村春子 滝沢修という名優がいた・・・とはいっても、ドラマや映画にも


多数出演していても、あの杉村と滝沢の舞台での見事さは伝えようがない。。。


伝説で良いのだと思う。それだからロマンなんだと思う。美談に変わるのだと思う。



たとえ、数行であっても私の名前とやってきたことが、文字として残る事を嬉しく思います。


生きた証、と言ったら大袈裟だけど、何か残せた・・・と 感慨深く感じています。







「母の本懐」をアップしてからまた一カ月以上の時が経ちました。


あの時には まだ書くことが出来なかった事実があります。


なぜ、結婚を急ぐことになったのか・・・通常の段取りと順番が違うのか・・・今だから話せることです。



3月の初めに、息子から結婚する意志を聞かされ、4月21日には新郎新婦の家族だけが集まった


小さな結婚式を挙げたのでした。



その式場となった場所は、病室でした。


彼女のお父様は3年前に 余命半年の宣告を受けました。


しかし、養生なさって家族の支えもあり頑張られて 3年が過ぎようとしていました。


4月中旬まで、自宅療養をなさっていましたが、とうとう入院ということになったのです。


モルヒネを使うようになれば意識も混濁してくることは明らかです。


そこで、二人はせめてお父様に娘のウェディングドレス姿を見せて差し上げたいと決め、前の週に


貸衣装合わせに行き、21日に間に合わせたのです。



当日は小雨交じりの寒い日でした。


貸衣装の大きな袋を持ち、キャリーを引き、息子の運転で彼女と私を乗せた車は50分掛けて


病院へ到着しました。


エレベーターの中で、一緒に乗り合わせた方から「海外旅行からのお帰りですか?」と


声を掛けられたほどの大荷物でした。面倒なので「えぇ」と受け流しました。



病室に着くと お父様は半身をベッドから起こし、白いネクタイにフォーマルの黒い上着を召して


迎えてくださいました。凛としたそのお姿を一目見た時もう胸が熱くなりました。


私はそれまで、衰えた姿を見せたくなければ、彼女のご家族と息子だけで記念の写真を撮ればいい


と思っていましたが、私もお招きを受けたのでした。


お父様はこの日をとても楽しみに待っていてくださいました。


私の眼には、そんな切羽詰まったご病状にはとても見えないほどに感じられました。


その時が、彼女のご家族と初対面でした。




個室の病室のシャワー室で新郎新婦は着替えをしました。


ちょうどドア付近にカーテンがあったので、一度二人を隠して 私がカーテンをサッと開けました。


同時に 妹さんが用意したウェディングマーチが流れました。




PentHouseだより


たった、3歩のバージンロードです。


私はいつも舞台写真を撮っているカメラを持参し、たくさんシャッターを切りました。


たくさんたくさん、思い出のシーンを撮りました。



PentHouseだより


この写真のお父様は微笑んでいらっしゃいます。


終始 笑顔に包まれ、喜びにあふれ 悲壮感などまったくなかったです。


どの写真もみんな満面の笑みで溢れています。


帰宅後、すぐにパソコンに落とし、大きな画面でお父様の微笑んでいらっしゃるのがわかった時、


思わす、涙が流れました。


どの写真もとてもよく撮れていました。


すぐにA4にプリントアウトしてCDに焼いて、すぐに飾れるように額縁に入れて お送りしました。


・・・それは、ずっと病室に飾ってあったそうです。


今でも、その写真からは楽しい思い出しか蘇ってはこないのです。




PentHouseだより


お母様と妹さんが用意して下さった、ウェディングケーキ。




PentHouseだより


ケーキカットをする二人。


彼女から御両親への感謝の手紙、お父様から二人への激励の言葉。


小さな小さな結婚式でしたけど、どんな立派で豪華な式よりも濃密で暖かさに包まれた時間でした。


私はこの時を一生忘れることがないでしょう。


両家の6人がこの時間を共有したことで 一瞬にして強く結びあえたと感じました。


正直、この後もとてもいい関係が続いています。




お父様が「娘とうまくやっていけそうなお母さまで安心しました」と言ってくださいました。


一目、姑になる母親を見ておきたかったというお父様の親心。


あとで聞いた話ですが、お父様のお母様と私が似ているのだそうです。


祖母にあたるお母様は、初孫だったお嫁さんをとても可愛がってくださったそうです。


お父様の手には御両親の額に入った小さな写真がずっと抱かれていました。



「入籍は何時にするのか」とお父様がおっしゃいましたので、私が「何か記念の数字とか


日にちはありませんか?」とお聞きしたら「〇〇君(息子の名前)の気の変わらないうちに」と


そんなユーモアのある答えをしてくださるお父様でした。






お父様は6月17日 19時15分に永眠されました。


4月に入院されてから1日も帰らずに病室に付き添われたお母様。


お父様が発病し、すぐに会社を辞めてずっとお母様を支え続け、自宅を往復し、守り補佐してきた妹さん。


最愛の家族3人に見守られながら、安らかにいつ心臓が止まったかわからないほど安らかに眠りに


つかれたそうです。


3年の間、ご本人もご家族も覚悟し、精一杯尽くされたので、葬儀はお父様らしい実に清らかな式でした。


そして、病室での結婚式の写真や家族の歴史を彩った写真が会場に飾られていました。


9月まで、是非本番まで!と気力になって下さればと願ってきましたが、あの時ウェディング姿を


お見せできたことは、時期的にこの時しかないベストタイミングだった!と つくづく振り返って思います。




家族の絆をなお一層深めた3年間。それはそれぞれにこの上ない苦しい日々だったかもしれませんが、


何事にも替えがたいお父様からの最期の、そして最高のプレゼントだったと思っています。



そして、そんな家族愛で包まれたお嬢様が息子の嫁になってくれた御縁に深く感謝をします。




奇しくも 6月10日は夫の十三回忌でした。


その時に、家の親戚にお嫁さんの初披露をしたのでした。


そして、その1週間後 17日にお父様が亡くなりました。ともに59歳でした。


何か因縁を感じています。


葬儀にあたり、今度は息子があちらの親戚に御挨拶。参列した私と息子の姉に当たる娘とも。


9月の結婚式前に、親族紹介を割愛出来るほどに、双方の親戚と初対面も終わり、すでに


和気あいあいの雰囲気になっているのでした。




人間万事塞翁が馬 という言葉が好きです。


不幸なことが起きても、それを後々よかった!という言える形に替えていくのは、これからの英知です。


結婚という人生最大の喜びを抱えながら、同時進行で人生最大の不幸に見舞われたお嫁さん。


それを支えた(支えられただろうか)息子。


お父様の心配をしながら、週末には2時間を掛けて病院へ通った彼女。


その間に、結婚式の打ち合わせ。3か月前ともなると式場との打ち合わせは毎週になると娘の経験談。


新居探しもありました。どんなに忙しい1カ月であったろうと思います。


人生最大の辛いことと 嬉しいことが混交し、懸命に過ごした日々だったろうと思います。


この大変な日々を乗り越えたということが、この二人の絆と 愛を深めてくれれば、お父様も


どんなにか喜んでくださるに違いないです。



本来なら、一年間は喪に服すのが正しいのかもしれません。


でもお父様がなによりも望んでいらっしゃったことです。このまま予定通り進めていきます。


3年間苦しい思いで過ごされたお母様にもこれからは喜びごとに向かって、夢を紡いでいって


ほしいと思います。




さぁ、これからは結婚式へ向かって 夢いっぱい 楽しいことをいっぱい考えてアプローチしていって


ほしいです。私も楽しみにしています。





息子が結婚し、新居を構えて昨日家を出ていきました。




息子と彼女は大学のサークルで知り合って、彼女が一つ後輩になります。


ですから知りあってからは10年、付き合い始めてからは7年の長きにわたります。


その間も、2・3度交際をやめた時期もありましたが、縁があったのでしょう、めでたくゴールインしました。


瞽女唄公演の頃に息子は「結婚しようと思う」と決心のほどを伝えてくれました。



5月16日にちょうど30歳になりましたから、年頃もちょうどいいし、お嬢さんも大手銀行にお務めで


家庭環境もしっかりしていらっしゃって、何の文句はありません。


それよりも、7年という長い間に数回別れたりしたために、彼は今流行りの独身を貫くのではないか


このまま結婚をしてくれないのではないかという不安の方が大きかったですから、万々歳です。



5年ほど前になりますか、一度会わせてくれたことがあって、なかなかの女性だと思いました。


しかし、その後別れた・・・と言うし、私としては彼女と結婚しないというのであれば、息子もそうそう


人を好きになるタイプでもなければ、モテモテになるほど気が効いた奴でもないので、そのたびに


がっかりもしたのです。



3月頃に、決心を聞かされた訳で、だいたいが何でものんびりしている息子のことですから


秋口か、場合によっては来春 結婚式だろう・・・と呑気な計算をしていたのです。


ところが、ある事情があって、4月21日には本人二人と両親同席だけのプレ結婚式をすることになりました。


それはそれは、感動的な心温まる小さな小さな結婚式でした。



その後、5月5日に入籍はしたものの、慌てて新居を探すという段取りのため、入籍後の約1カ月の間も


なんの変わりもなく 息子は我が家でそのまま生活していたのです。


その間が なんとも中途半端で、私にしてみれば蛇の生殺しみたいな思いでした。


とても大事な1か月でもあったのだけど、今さら互い照れもあってまったく変りのない日常。


息子も少しは早く帰ってくればいいようなものの、いつもの通り23時~午前様の帰宅。たまに彼女宅。


会話と言えば「ただいま」「おやすみ」「いってきます」くらいな、味気なさ。


息子は3歳の時からこの家で育ち、会社に入ってからも転勤などもなく27年間、この家で過ごしました。


このまま、30歳を過ぎても独身であったなら、独立させるべきか、しかし東京に居を構えて、どこへ


くにも地の利が良い現住所、4人家族が今や二人になってしまい広さも十分すぎるほどだし


2世帯になっては不経済だしと、それなりに将来を思うと迷っていた訳です。


結婚を決意したことは、グッドタイミングでもあり、息子にとっても私の計算からもうまくいったのです。




しかし 7年ウダウダしていたのにもかかわらず、その後がとにかく急転直下なのです。


結婚の段取りを急いでいることについては、断っておきますが「おめでた婚」だからではありません。


それどころか もっと深刻で苦しく そしてとても美しい事情なのですが、今は言えません。


会社、友人を呼んでの披露宴は9月に予定しています。




3月の結婚宣言から その後があまりの超特急だったので、私の気持ちがその流れに追いついて


行かれないままに事は進んで、心のけじめや決心も出来ないうちにあっという間に家を出ていかれて


しまい、今になって、唖然として どっぷり「空の巣症候群」に陥っています。



決してマザコンでもなければ、子離れ出来ていないとも思わなかったのに、今、自分の気持ちに

どう折り合いをつけて納めたらいいのか、戸惑っているところです。まぁいずれ慣れることでしょう。



娘を嫁に出した気持ちと、まったく違うものなんですね。


また、ちょうど6月上旬に夫の十三回忌を迎えます。息子はその時18歳でしたから、その後今まで、


そりゃ一生懸命に育ててきましたし、男の子と言うだけで無意識に頼りにしていたのだということを、


今 初めて気付かされました。全然、そういう風には爪の垢ほども思っていなかったのに。



結婚して、芝居をやめました。それは誰でもない私が決めたことです。


劇団からもプロダクションからも止められたのを、私が強引に冷徹に切りました。


すべてを捨てても 人間を育てるほどの芸術作品を作り上げることは生半可な仕事ではないと思いました。


息子を産むときは、母子ともに命取りかもしれないという状況を抱えて命がけで出産しました。


男女二人の子供を授かったことも運が強かったです。


お陰で、警察にお世話になる様な事もせず、大きな怪我もさせず二人はちゃんと自分で伴侶を


見つけ、立派に巣立ってくれました。


娘家族は2階に住んでくれて、孫にもすぐに会えるし、ブローダーハウスという素敵な仕事も持っている。


人に羨ましがられこそすれ、何をそんなに落ち込むことがあろう・・・自分でもよくわかっています。



ひと言でいえば、全力で書き上げた小説が脱稿した気分。定年退職した気分に近いのでしょう。


すべての仕事をやり終えた、やり遂げた、という虚脱感。懸命に生きた事の終焉。


さぁ、あとは「あとがき」を書くくらいです。「あとがき」なんて、あってもなくてもいいようなもの。


読む人もいないかもしれません。


そうなんです、「完了」 「FIN」 「終」 「END」 「大団円」


演劇なら、いよいよエピローグ、締めくくり。カーテンコールかもしれないわ。


母親という役から、素の自分に戻るとき。私は立派に役をこなせたのでしょうか。


たくさんの拍手をいただくことが出来ますか。



なんだか、大海に一人放り出された気分。これからは何でも好きなように生きればいい・・・と。


母親であれば、誰でもこんな思いをし、自分の気持ちを納めてきたのだろうし、第三者からは


「これからは家族が増えて楽しくなるのよ」と言ってくれるのでしょう。


婿が増え、嫁が増え、孫が増え、親戚も増える・・・子孫が繋がっていくのを見てこれで安心して


「FIN」を迎えられるというものでしょう。これぞ、結婚をし子供を産み育てた母の本懐です。



そう、家族の「END」という気持ちがします。


私の作った家族はもうこれで一巻の終わり。これからはそれぞれに家族を作っていく。


もう私の家族は離れていった。どうしてもそういう気分になります。それでいいのだけど、そうやって


歴々の人も生きてきて、こういう気持ちになったのだろうけど。


一人残されたけど 子供はいつまでも親を心配してくれます。


そういう意味では家族としての絆は永遠でしょうし、具合が悪くなれば心配もしてくれるでしょう。


死ねば誰よりも泣いてくれるでしょう。


私にも88歳になる父が存命です。いつまでも愛しているし大好きだし、元気でいてほしいです。


父は、私への負担も掛けず自分でできることはなんでも自分でやれますから、老人の鑑のような


人生を送ってくれています。私もあぁあらねばと思います。



息子の結婚を喜んでばかりいたら、ふと気付きました、「私、姑になったんだ」と。


あちらのお父様に初めてお会いした時、「娘がうまくやっていけそうなお母様で安心しました」と


おっしゃっていただきました。「私も娘を出しましたけど、お姑さんは気になりますよね」と答えました。



姑となったことが怖いです。ぞっとしました。


今になって、私にとっての姑はあの時に、そんな意味や思いで言ったのではないことがよくわかります。


物をくださったときだって、気に染まなくても、その気持ちは大切に受けるべきだったと今は申し訳ない


思いでいっぱいです。


姑のひと言ひと言は針を刺される様な気持ちがしました。恨みました。


だからこそ、今、姑になって何も言えないけど、何も会話しない訳にもいかない。



すべて、歴代の母親がしてきたように、娘のため、息子のため、今後はただただ二人が


うまくいきますように、それだけを願って心して、自分の気持ちを押さえていかねばならないのだと、


自戒していかなければならないです。


今、娘が孫を育てているのを見てもそう思います。


人間ってただただ繰り返し続けているだけなんじゃないかって。



あぁ~自由にわがままに生きてきてしまったから、私に姑が務まるだろうか、


自信がまだ持てないのですね。子供を持って母親にしてもらうように、嫁がきて姑にしてもらうんだわね。


姑業も優良企業目指してがんばっていかなきゃ!




残るブローダーハウスという 末っ子はまだまだ7歳ですからね。


成人させるまで頑張らねばね。皆さま、どうぞ助けてください、よろしくお願いします。














PentHouseだより


2月22日(金曜日)23日(土曜日)2007年から定例公演 第6回「ごぜ唄が聞こえる2013」が無事終演しました。


第一回目から携わってきた、ごぜ唄公演の発案者でもあったE氏は多忙のため、去年5年目を区切りに手をひかれました。


今まで企画制作は、実質的にE氏が対外交渉やパソコンにも強く一手に引き受けてくれていましたので、私は指示通り雑用係という立場で気楽に動いていただけでした。


ひとりで責任を被る立場になって、はて、私一人で切り盛りが出来るものか?とても不安でした。

そのため2012年度 終演後は 「ごぜ唄」公演について、初めての危機を迎えていました。



ごぜ唄公演は、E氏の観客動員力に頼り 今まで3日間4回の公演を持ってきましたがE氏が抜けるということで、大幅にお客様が減少するとみて、一気に2回公演に縮小してみました。

今年はとにかく試金石、キャンセル待ちが多く出るようであれば、来年は3回にと考えました。


ドキドキ、ヒヤヒヤしながらの受け付け開始でしたが、2回という読みは、幸運にも数字的に実にピッタリでした。また去年までの日曜日の公演と夜公演をやめて、金曜日土曜日ともに1回、昼の公演のみ、と定めてみましたがキャンセル待ちのお客様が1名。その方も結果お入りになることが出来ました。

予約のお客様のリストを、受付間違いをすることもなく、お陰さまでチラシデザインから公演までの制作部の仕事も、どうにかやり遂げました。


お客さまにご迷惑をおかけすることもなく、ご希望者は全部お受けすることが出来ましたので、制作部としては安堵しています。

これで、来年も2回公演で、という決断ができます。




PentHouseだより


今年は 萱森直子さんお一人でお願いいたしました。

本来であるなら、萱森さんのお弟子さんも立派にステージに立たれて、去年までは掛け合いなどもあり、賑やかな舞台を繰り広げることもできましたが、やはり、師匠である「小林ハル」さんの愛弟子であり、言葉の端端に師匠を敬愛する心が伝わってくる、萱森さんのステージは圧巻で本当に心洗われ清々しい気持ちにさせてくれます。


萱森さんの誠実なトークに魅了されているお客様も多く、お一人の舞台はさぞお疲れだとは思うのですが、お客様満足度は100%。その後の感想では、まだ聞き足りないファンもあるようで現在90分のステージを、2時間にはできないものか、という意見も出るほどでした。


なにより、動員数を減らしたにもかかわらず、第1回目から欠かさずお越しいただいているお客様、また、関東近県は言うに及ばず、遠く、奈良県・京都府・山梨県・長野県・福島県からお運びいただくお客様で、前にも増して濃密な空間、熱い空気感で包まれました。


実質E氏がすべて請け負ってきた仕事でしたが、今年から受け継いだということで、特に言葉にはしませんでしたが初めて私が「前節」を担当しました。


22日には「最後の瞽女~小林ハル」の著者、川野楠巳氏がご来場され何度も再版された本ですが、この版をもって絶版になる最後の10冊をお持ちくださいましたので、ロビーで販売いたしました。


23日のお客様には大変申し訳なかったですが、22日で完売いたしました。



PentHouseだより


ロビーでは、萱森さん手作りのCDも、年ごとに枚数を増し、今年はレパートリー演目も10枚になりました。



PentHouseだより



他に、1階ロビーには今まで新潟日報・読売新聞・朝日新聞に取り上げられた記事を、拡大コピーして展示しました。



PentHouseだより


土曜日の部には、E氏も12人のお客様を連れて来てくださいました。

「ゆっくりお客人として見られたよ」と言っていました。


そうなんです。ごぜ唄が良いものであると惚れこんで企画制作公演をしているにもかかわらず、表方の私たちはまったく見聞きすることが出来ないのです。

スタッフに録音をしてもらって、その日の夜にすぐ聞きます。



PentHouseだより


今回は、初めての試みとして、終演後に萱森さんを囲んで「談話会」を開催しました。

ほぼ、半数のお客様が残られて、和やかで、子供の頃瞽女さんを知っているという経験がある方の貴重なお話も出ました。

予定時間を過ぎても、まだ皆さま、座を離れがたいご様子でした。


身振り手振りで熱く解説する 萱森さん。



PentHouseだより


今回は、大幅に見直しもしましたので、気持ちを新たに「初めてごぜ唄と接する方にもわかりやすい内容で」と萱森さんにお願いしました。

萱森さんが取り上げた祭文松坂の演目は「巡礼おつる」。第一回目にも読んだ演目です。


祭文松坂は、たとえば落語のように演者が変われば味わいも異にし、また、何度聞いても、その時の自分の有りようで気持ちを新たに聞けるという所にあります。歌舞伎にしても、話の結果がわかっていても、楽しめるのと同じです。


私が初めてこの「巡礼おつる」を聞いたとき、仰天したことがあります。

どの演目も、古今東西変わることのない母子の情愛、父子の絆等がテーマになっていますが、この巡礼おつるは、なんとSFではないかと思いました。


昔の人が、こんな物語を考え付くなんて驚きました。現代劇に書き換えたって映画にも舞台にもなると思います。

他の演目も、まさにそれはミステリーだろう、とか純愛物語だろうとか、現代にも遜色ない話です。



PentHouseだより


とにかく、ごぜ唄は暗いとか陰気臭いというイメージはまず取っ払ってほしいと思っています。

私はいつも「一度聞いてみて。それで肌に合わなければ、もうそれでいいから。誰だってジャズがすきだったり、クラシックだったり、演歌だったり、好みはあるのだから。でも食わず嫌いはしないで。」と。


民衆が培ってきた、庶民の心に響くものなのだから。これがお金持ちや高貴な人の習い事だったら、もっときちんとした形で残って来ただろう・・・と、萱森さんも言います。


目の見えないごぜさん達が耳で聞いて伝え繋いできた芸能です。長岡系ごぜ唄、高田系ごぜ唄の両方を歌いこなせるのは、現代では萱森さんおひとりです。

ひとりでも多くの若い人たちに聞いてほしいのです。こんな芸能が日本にはあるのだ!ということを、せめて今なら生でそれを聞くことが出来るということを。

萱森さんは「ごぜさん」ではありません。ごぜ唄伝承者です。

「瞽女」というのは職業名で「八百屋さん」「魚屋さん」というのと同じ分類です。昭和の初めなら「流し」というのに近いかもしれません。歌を歌って報謝を受けるお仕事です。


萱森さんの師匠、小林ハルさんをもって職業である「瞽女」さんは無くなりました。萱森さんはその伝統芸を継承されている方です。


村から村へ、目の見えないごぜさんが、どんな難儀も乗り越えて足を運んだのは、「待っていてくれる人がいる!楽しみにしていてくれる人がいる!」という思いだけだったのです。


わかっていただきたいのは、「ごぜ唄」は聞く人を楽しませる芸です。決して陰気臭いものではないのです。目の見えない方が、それも高齢で、腰まである雪をかきわけ、ある時は丸太の一本橋で足を滑らせ大けがやら、命を失った方も・・・。

考えただけでも切なくなります。そういうイメージになってしまうことは仕方がないことだと思うのです。瞽女はモノトーンの世界、そういう感じに受け取られますよね。


しかし、春もあれば夏もある。若くて美しい瞽女さんだって、幼い年齢の瞽女さんだって居る訳です。ハルさんはかえって夏の方が辛かったと言っているくらいなのです。

演目には 笑いあり、お色気あり、洒落っ気があり、しみじみ聞く物語あり。


今回の「巡礼おつる」でも、涙をぬぐうお客様もいらっしゃいました。なにより私が好きなのは、聞く人の想像力を五感をフルに刺激してくるところです。

その心地よさが、たまらなく好きなのです。


これからも、ひとりでも多くの方に知っていただきたい。


来年も、ブローダーハウススタッフ一丸となって、1日でも永く最後のお客様お一人になるまで頑張っていきます。


今後とも、「ごぜ唄が聞こえる」のご支援をどうぞよろしくお願いいたします。



ブローダーハウスでは毎年2月、最終週末にごぜ唄公演を行っています。

1月になりましたら、ブローダーハウスにお問い合わせいただければ、次回の詳細が決定しております。






2012年大晦日です。


一年いろいろありました。ブログはだいぶサボってしまいました。


書きたいことは山ほどあったのですけど、今年は公私ともになんとも気ぜわしかったです。


6月からのブローダーハウス公演は、ほとんど毎週のご利用が入り、


この7年間これほど忙しい年はなかったです。有難いことです。


木曜日~日曜日までの4日間というご利用が多いのですが、月~水までの間だけが、空舞台。


その間に劇場見学、スタッフ打ち合わせ等が入りますので、1週間休みなしという場合もあります。


それが毎週入っているものですから、半年間ほとんどまるまる1日開いているという日は数日だけでした。



まったくブローダーの用事がない時には、去年孫も生まれて現在1才9カ月。可愛い盛りなのです。


一緒に遊びにも行きたいし、孫と遊ぶというのはその後、ドッと疲れが出るもので、別の疲れで


よくこの一年身体が保ったな、と思います。


そうなったらなったで、この年になっても身体のバイオリズムは整うもので、かえって規則正しく


生活習慣がついて、身体の調子も良かった気もします。



たくさんのご利用があったことで、多くのよい舞台に出会えて幸せでした。


東大の演研、青学演研の現役生・OBグループの皆様には何度もご利用をいただきまして


誠にありがとうございます。来年もこの2大学はすでにご予約をいただいております。



シンクロナイズプロデュースの「タニンノカオ・人命救助法」


貴楽屋の「ジュンサイ」は特別に秀逸な舞台でした。



show和がーるずん「ラ・ミュージカⅢ」


劇団だるい「全力疾走」


ストレート松浦 熱血劇的ライブ 


この3本は、実に楽しく近くの知人を勧誘したら、すっかりブローダー公演のファンになってくれて


何度も足を運び、これからも楽しめる舞台があったら勧めてくれるように頼まれています。



1階「静の空間」も毎年定例の催しや、毎月のセミナー・稽古場利用も定まってきました。


2013年も、今年以上にご利用がありますことを願って、スタッフ一同張り切っていきたいと思っています。



まずは、2月「ごぜ唄が聞こえる」で、ブローダーハウススタッフ一丸となって立ち向かってまいります。


2012年、ご来場のお客様、ご利用の団体・劇団のみなさま、ありがとうございました。


これからも、よろしくお願いします。



6月以降、皆様からご予約を頂いて、毎週末詰まっています。


それで、今までは暇だったブローダーハウス。月に2回ご利用があるかないかでしたが


急に忙しくなってきました。


今年から、料金値下げしたことが幸を奏したのか、また、予約金も一律でお安くしたことか、


去年の地震の反動からか、とにかく、仕事とはこうこなくっちゃ!と張り切っています。


毎週のご利用があるとスタッフのシフトも出来てくるし、身体もその流れになれてくるし。


人間って、時間があると思うと、やらねばならないこともついつい後回しにして楽に逃げてしまう


傾向があるところ、さっさと片付けることも覚えて自分の身体のリズムは大変心地よくて、かつ元気でもあります。



さて、毎週末公演があるせいか、それで気に障ってしまったのでしょうね。


近隣からのお小言を頂きました。


こんな事は7年目にして初めてのことです。


客出しの時の声のことですね。道路での話し声だそうです。


上演中の音については、まったく気にならないとのこと。


前の道路が狭い上、声は上に上がります。4階事務所にいても響いてきますので、あまりひどい場合は


フロントの方にご注意させて頂き、ドアを閉めるように促しますが、なにぶん出演者もお客様も


感動していると言いますか、興奮しているので、ついつい声が高く大きくなってますし、


出演者は舞台と同じ声のトーンで話されますから


正直、今まで近隣の方たちはよく我慢してくださったと思ってはおります。



50人足らずのキャパですから、客出しにたいした時間はかかりませんから、近隣も


「あぁ今終わったんだな」と思って、15分ほど我慢すれば静かになると我慢して頂いているものと


甘えていました。



さぁ、こうなりますと、管理人としては引き締めにかからねばなりません。


客出しの時に、道路までお見送りをしてお礼を述べる気持ちは痛いほどよくわかるのです。


遠方からわざわざ足を運んで、お金を支払い、お時間を頂くのですから大変ありがたく思う気持ちは


誰よりもわかっているつもりです。



しかし、これからは客出しの時、ドアを開け放って頂いては困ることになりました。


開放厳禁にします。


ロビーがない劇場と違い、ブローダーハウスは1階にスペースがあります。


ここで、歓談して頂き、道路での立ち話には厳しく戒めていかなければならない立場になりました。


本心、大変苦しいです。苦情を申し出た近隣に「営業妨害だ!」「10時までは許容範囲だろう」と


反論もしたいくらいです。


しかし、近隣のご協力なしにはこの仕事が成り立たなくなってきますので、ここは穏便に納めようと思います。


ご利用の皆様には、ご不自由であり、自然の流れの中でお見送りに出たい気持ちになられると


思いますが、今後、その辺は押さえてドアの中でお見送りをお願いする次第です。






また、先日まったく私の演劇への価値観と違うグループさんのご利用があり、唖然としました。


基本、お芝居が未熟であっても、大好きで情熱を持ってやっていらっしゃる方たちには、その思いが


あふれ出ていますし応援してしまいます。


そういう人たちが大好きですし、下手でも一生懸命だといっぱい感動します。


私たちの出来ることならどんなことでも手助けしたい気持ちにさせられます。


現に、舞台部もついつい、私物を貸してでも 助けている姿を見ます。


ただ、マナーの悪い方、ご利用規約を守ってくださらない方には、どうにも手の施しようがありません。


正直、今後お貸しできない団体さんが7年で3組出ています。


この仕事は、一度は引き受けてみないとわからないもので、あの人がこんな素敵な台本を書くの!


と驚かされたり、提出台本を読んで「つまらない」と思っても、演出でこんなにも面白くなるものか!と


発見したり、役者が上手いと、ここまでこの台本を引き上げることが出来るものなのか、と


うれしい裏切りの方が断然多いのですが、それに反し、舞台経験豊富で安心しきっている人たちの


マナーがなっていないと、情けなさでいっぱい。


これでよいと思っているなどとは許せない腹立たしさを感じます。



私の、少しばかりの経験値からしても、何の世界でも最後は人柄です。礼儀を知っている人間が最後は生き残ります。


TVや映画、舞台で、今活躍中のベテラン役者さんの中にも、明らかに人生間違っちゃったね、と


思われる下手くそな俳優でも、なんでこんなに使われているのか不思議に思うことがありますが


そういう人は、間違いなく礼儀正しく、上下隔てなく配慮が行き届いて、スタッフ全員に好かれているものです。



反対に、私が昔共演した俳優さんは、その時は飛ぶ鳥を落とす勢いでイケメンの俳優さんでした。


本番の時、お酒の匂いがしました。昨晩かなり飲んだとみえます。


私が感じたのは近づいたその一瞬でしたが、その精神のたるみがその人となりのすべてを物語っていました。


いま、まったく姿をみかけません。



演じるということは、心理学です。


台本を書くのにも それぞれの立場や、細かい心境を紡いでいかなければならないと思います。


お客様に伝えること、表現すること、共感して頂くこと、それが演劇だと思います。


いま、話題の「いじめ」の問題も、もう少し学校で演劇を教えれば良いのに、想像力と心理学。


こんなことをしたら、されたら、自分だったらどういう気持ちになるだろうか。そして、面白半分に行動を


起こしたとしたら、結果どうなるか、先を考え想像してほしい。まず自分の立場に置き換えて想像してほしい。



そういう想像力が、まったく欠如しているなぁ~とつくづく思います。



だからこそ、演劇を真摯に、まっすぐにやっている若者に悪い人、根性の曲がった人はいるはずがないと


信じて、この仕事をしています。


先日はその中で少数派の人と接して、残念に思いになりましたが、150組をお受けして3組ですからね。


これからも信じていって間違いはないですね。



素敵な若者や、魅力的な方々と会えたことの方が、ずっとずっとずっと多いし、嬉しい仕事です。


これからも、たくさんの喜びをくださいね。お待ちしています。












PentHouseだより


1年以上も前になりますか、通りを歩いていたら、懐かしい音楽が流れてきました。


「あっ、これ♪ ママがレギュラーで出ていたドラマのテーマソング!」


思わず、一緒に歩いていた娘に向かって叫んでいました。


当時から、一緒に出演していた 山田パンダがオープニングテーマのこの曲を歌っていたことは


毎週、聞いたいた訳で、承知していました。


とにかく懐かしい・・・


その曲が「風の街」というタイトルだというのも、検索で探してずっと後でわかったことです。


それまでは ドラマのタイトル「あこがれ共同隊」のオープニング曲としか認識していなかったし


後年になってこんなに懐かしく思い返すなどとは、若かったから考えてもいなかったです。



1975年6月6日から9月26日まで TBSのドラマ「あこがれ共同隊」は放映されていたらしい。


これも最近ネットで知ったこと。


この1975年にかぐや姫が解散したということも。


それで、山田パンダはこのドラマに単独で出演された訳なんだ・・・すべて今になって知りました。



初めて顔を合わせたときは、だれだろう?って思ったもの。


常田富士雄さんと親子の役で当時流行っていたヒッピー姿。


ドラマの要所要所にひょっこり二人で登場する なかなか面白い味付けの役でした。


出演者から、そっくりでまるで本当の親子みたい・・・って言われてましたっけ。


それに、この二人、仲がよくて とってもいい感じでした。



しばらくしてから、アマゾンでこのアルバムを見つけ、used を買いました。


この曲は、吉田拓郎の作詞・作曲・・・今考えれば、まさに拓郎に決まっているという独特さ。


それすらも、当時は知らなかったなぁ~


我が青春の時、この曲を聴くと思い出せる、そういうノスタルジックな時間にどっぷりと浸れる


そういう曲があって幸せだと、今思う・・・



この「あこがれ共同隊」だけども、今思い返しても すごい出演者だったのね。


主演は3人の若者で、郷ひろみ、森本レオ、せんだみつお。


夢と希望を抱いた3人の若者が、表参道原宿の町で知り合って、頑張って、喜び悲しみ・・・友情。


それに絡む 出演者が、西城秀樹 桜田淳子、山口百恵。


三田佳子、黒柳徹子、田中邦衛、長門裕之、高橋雅也、品川隆二、野村昭子。



郷ひろみが、デザイナーを目指して、その縫製所のご主人が品川隆二、奥さんが野村昭子。


そしてそこで働いている縫い子が、鷲尾真知子 と 私と もうひとり可愛い子。


そしてシェリー。シェリーも今は全然出ないわね。ハーフで当時は人気だった可愛い子。


今でいえばベッキーみたいな感じかしら。


鷲尾さんと私はその時、同じ新人仲間、それまでの芸歴もほぼ同じ。


でも、鷲尾さんはそれを出発点にしたけど、私は終点にしちゃった。


そのあとも、数本のドラマに出て、結婚してからはプロダクションからまだまだオファーの電話が


新居にもかかってきたけど、「監督が、どうしてもあなたに、と言ってます」とまでいって頂いたけど


断ってしまった。


今、振り返ってみると、プロダクションにも申し訳ない事をしたと思います。


このラインに乗るまで、乗せるまでが どれだけ大変か。


今、劇場を経営していて、若者、誰しもこのラインに乗るのを目指して頑張っているんだものね。


正直、もったいないことをしたと思っています。


でも、強がりでも負け惜しみでもなくて、こちらの人生を選んでよかったと心底思っています。




その後、鷲尾さんとは ブローダーハウスで再会したけど、それも懐かしかった。


二つの岐路を鷲尾さんと私は、それぞれの道を歩んだ、と自分の分身を見る思いで活躍を応援しています。


その今は大御所の出演者の皆様と、ほとんど会話を交わしました。


品川隆二さんには、いろいろ礼儀や作法を教えて頂きました。


森本レオさんは、芸能界の陰の部分も教えてくれたし、郷ひろみさんはたった今まで、我々共演者と会話をしていても、


ファンがそばに来たら、話すのをピタッとやめて、 そんな徹底ぶりが賢い人だなぁって印象。


メイク室では黒柳さんのあのタマネギ頭はどのように結っているのか見たし、


同じ呉服屋さんだと言うことで話もしたし、田中邦衛さんはおとなしくてほとんどそのまま。


楽屋では、どこに居るのか存在感すらなかったし。



桜田淳子ちゃんはとっても可愛い妹だったわ。あんな風に芸能界から消えていくとは思わなかったけど、


素直だったからでしょうね。世間知らずだったからでしょう。でも、その後、週刊誌にもマスコミにも書かれないところを見ると


普通の主婦として、幸せにやっているんでしょうね。前出のシェリーもね。



山口百恵ちゃんも、おとなしい子だったわ。制服のまま楽屋入り。


1回だけの特別出演だったから チラッとメイク室で見かけただけだったけど。


西城秀樹さんも あの頃は若かったわね。どっちかっていうと野性的な西城さんのファンだったけど


同じシーンは全くなかったから、お会いしたのは打ち上げの時でしたっけ。




三田佳子さんだけ、個室で別扱い、スターだということもあって、野村昭子さんや玉川良一さんが


コソコソ「あの狐目が!」とか「声が小さいんだよ」とか、悪口を言っていたり。


そういうところも、反面教師で勉強になった。


でも、実際の三田さんは、気さくで私たち新人にはとても優しかったわよ。


打ち上げ会場まで、長門裕之さんの車に同乗させてもらったり、スタジオには南田洋子さんも激励に


いらっしゃったり、間違いなく仲よしのおしどり夫婦だったわ。



たった一つのレギュラー番組だったからこそ、思い出がいっぱい、昨日のことのように思い出すわ。


単発ドラマは何本も出たけど、レギュラーはこれだけ。


その、手に届いたところで、私は満足しちゃったわけ。親も芝居を続けているのに本心、いい顔していなかったし、


自分の納得のいくところまでは頑張った!って、思えたから。

  


山口百恵が引退して、おこがましいながら私も同じ頃に家庭人になった。


でも、その後、百恵さんはずいぶん追いかけられたし、三浦友和さんが本気で怒ったりもした。


そんな週刊誌や、ワイドショーで見聞きするにつけ、気の毒で、あぁ~有名になる前にやめて正解だったと偉そうに本気で思ったわ。


あの頃、それでも CM 8本くらいに出てたから、この程度の顔出しでも、無意識にどっかで会った人、


知り合い?って思われるらしく、まったく知らない人から挨拶されたり、そこそここんな顔でも知られかかっていたから・・・



百恵さんとは息子の合唱祭の時に、同じ地区だったから、会場でお会いしたけど、その時もまだ、


ジロジロ見られていたし、自分の意思とは別に、どうにもならないことだから、一度有名人になると


マスコミが静かにしてはくれないという点で、一般の主婦に戻るのはそれはそれは大変だと思った。


私は、静かにそっと一般人に戻れてよかった。


百恵さんと学校行事で会ったということは、いかに同時期に辞めたか、子供の年でもわかるわね。



なんでも、小泉今日子がこの「あこがれ共同隊」を見て、原宿にあこがれたとか、なんかに話していたらしいわよ。


とっても、モダンなドラマだったんです。小泉さんに限らず、今も若者に人気がある街なのは、「あこがれ共同隊」からだ


といっても過言ではないはずです。


山下達郎が「風の街」のバックコーラスだったとか。その時、吉田拓郎に怒鳴られて、今でも犬猿の仲だという話


今は昔ね・・・





もう品川さんも、長門さんも、常田さんも鬼籍に入ってしまわれた。


まぁ~婆さんの、古くさい 昔話として聞き流してください。



「風の街」に再び出会えて、突如私の青春が蘇ってしまったもので。


私の数年間、確かに人生の中で、精一杯夢中で生きた 無性に楽しかった青春のお話なのでした。




余談ですが、私 大学時代はフォークソングクラブに入っていて、ギターをかき鳴らして唄っていたんですね。


その頃、吉田拓郎や岡林信康など、泉谷しげるも・・・そういったシンガーソングライターが流行っていた訳。


それで、私も今アンパンマンで有名なやなせたかし先生の詩に曲を付けて、ご自宅まで許可を得にいったりもしたんですね。


四谷にあるやなせさんのお宅へ。まだアンパンマンは存在していない頃だから、書斎まで通してくださって


いっぱいお話ししました。


それで、あるとき、フォークソングの飛び入り参加に出たんです。


そうしたら、どこで調べたかNHKから電話が来て「10代とともに」という番組のサブタイトル「自作自演」に出ないかという話。


10代最後の思い出として出演したんです。


そして、その頃は芝居の道に行こうと決めた頃だったので、「歌で気持ちを伝えるには限界を感じます」


などと、生意気なことを言ったんです。ただ、才能がなかっただけなのに。


いま、思いますね。歌ってすごいって。


時空を飛び越して、そのシチュエーションに放り込まれてしまうんですもの。



歌の力って、すごい・・・いま、完全にあの19歳の時の言葉を撤回しなきゃ。


人それぞれ忘れられない思い出の曲ってありますものね・・・それが 私にとっては「風の街」かなぁ~♪






尾崎紀世彦さんが 5月31日に肝臓がんのため都内の病院で亡くなりました。69歳でした。


また、時代の巨星が消えていきました。


20代の頃から ずっとファンでした。ワイルドな風貌に優しい瞳が大好きでした。



70年、可愛いだけのアイドル全盛の時代に、歌唱力のある尾崎紀世彦さんが登場した時は


日本にも大人の歌が歌える歌手が現れたと、これで欧米にも負けない、誇れるスターが現れたと思いました。



日本レコード大賞を受賞し、あの歌唱力があれば 順風満帆で歌謡界に君臨してくれると思っていましたが


日本の音楽界はそれ以上 彼を育み大切に扱ってはくれませんでした。


なんであれほどの実力ある歌手を、粗末にするんでしょう。『別れの夜明け』『さよならをもう一度』


『愛する人はひとり』 2・3曲のヒットを出しただけで、そのまま、歌声は聞こえてこなくなりました。



尾崎紀世彦は、日本の歌謡界において、貴重な歌手だったと思います。


あのモミアゲをトレードマークに ワイルドな風貌、パワフルな声。しかし、実に澄み切った美しい声を持っていました。


綺麗な声、私の好みかもしれませんが 心地よかったです。もっともっと聞きたかった。



歌手は歌唱力でしょう。美しい声でしょう。見た目ではない筈です。


おにゃんこに始まって、モー娘、今はAKB48 それはそれでいいけれど、


いくらTVの世界、ビジュアルが大切だとはいっても、音楽のクォリティが高い人をもう少し尊重してもいいはずです。


森進一が出てから、なんで悪声がもてはやされるのでしょう。


今では、徳永英明・・・私は徳永が大嫌いです。声が悪い人が嫌いです。耳触りが悪くてもうそれだけで


受け付けないのです.。申し訳ないけど、声が綺麗でなければ歌手とは認められないのです。



美声とビジュアルのギャップが面白がられたスーザン・ボイルだって、感情的で扱いにくいと言われても、


実力は十分に認められて イギリスでは大切に扱ってくれたではないですか。


素人からオーディション番組で合格して たった一曲だけ「HOME」という歌を出した木山裕策さん。


あの人の声も綺麗です。でももう聞こえてはこない・・・



尾崎紀世彦のその後が、まったく聞こえてこなくなってから、たまたま従兄が音楽関係の仕事をしていて


尾崎紀世彦と交流があると知り、好きなウェスタンなどを歌って過ごしていると消息を知りました。


小さなライブハウスや、スナックで歌っていたのでしょう。


今でも元気に歌っていてくれるんだと知って、嬉しいような寂しいような、心底 歌が好きだから


今でもめげずに頑張って歌っていてくれるんだ、そんな歌を愛する人を大切にしない、日本の音楽界に対し、


悲しくて悔しくて残念でなりませんでした。


もう一度、引っ張り出して脚光を浴びてほしかった。



尾崎紀世彦が、TVから消えて、私は音楽番組をほとんど見なくなったし、音楽も低迷してきてヒットパレード的な番組も減りました。


音楽業界が低迷するのは、当然です。



もっともっと、歌えた歌手だったのに・・・


尾崎紀世彦をこんな形で失ってしまった日本の音楽業界に、私は今、絶望にも似た悲しみを感じています。




役者では 緒方拳 歌手では 尾崎紀世彦   


私がこの歳まで生きてきて 変わらずファンでいられた 一番大好きな二人でした。本当に残念です。