【16】


「どうしました?ナオキ」
さっそく教授は、ハンモックの張り具合いを確かめるようにして身を預けている。
「ホットなバイブレーションを感じているようですなぁ…。そうです、頭で考えたりしてはいけませんぞ。感じる事が大事なんです。君がここに導かれた意味みたいなものを探してみてはどうですか?ナオキ…あっ失礼、ナイキでしたね」
日本を発つ前に、ヤノマミ族に関しては、『事前に詳しく調べる必要はない』と語った教授の言葉をふと、僕は思い出していた。
すると、教授も何かを思い出したかのように若干スピーディーにハンモックを抜け出すと、リュックに括り付けられた麻袋の中からペドロに貰った、紐でぐるぐる巻きにされた例の亀を取り出したのだ。
「こいつは喜んで貰えるでしょう。栄養価も高いですしね。さぁ、カピタンに届けてきて下さい」と言って、僕に亀を手渡した。
手に亀をぶら下げて、少しドキドキしながらシャボノの反対側にいる酋長の元へと向かった。
点在する焚き火の炎と月明かりだけを頼りに、闇が覆い被さった中央広場を突っ切って、「カピターン、カピターン」とウロウロしながら人探しの風情で呼び掛けていると、「ナイキ!」と言って酋長が、僕の視界外から斬り込むように声を掛けてきたのだ。
不意を突かれて軽くビクッとしたが、
すかさず僕は、「あ、カピタン!トリヒーバ」と言いながら歩み寄り亀を渡すと、酋長は亀の甲羅をコンコンと叩いて、とても嬉しそうな顔を僕に向けた。
この短いやり取りが、そばにいるヤノマミたちの注目を大いに浴びていたようで、僕に向かって、家の焚き火に当たりに来いと言わんばかりに、それぞれが癖のある手招きをしている。
喜び混じりの困惑顔で立ち尽くしていると、僕の着ているトレーナーの袖を引っ張る、5~6歳の男の子がポーカーフェイスで僕を見上げている。
名前はプレマリオン。
これが彼との最初の出会いである。
僕はすっかり手を引かれるがまま、考える間も与えられず、彼の住居へと連れて行かれ、座るようにジェスチャーをする彼に促されて、地面に置かれた木の切れ端に腰を下ろした。
明かりが乏しくてあまり良くは見えないが、
僕の周囲には彼の家族らしき数人のヤノマミが車座になっていて、屋根の一番低い所に吊られたハンモックには誰かが潜り込んでいるようだ。
プレマリオンは、屋根の天井部分の骨組みにハシゴを立て掛け、スルスルとよじ登り、そこに取り付けられた木の網棚の上から一房のバナナを取ってきて、無言で僕に差し出し、食べるように勧めてくれた。
なんて甘くて旨いのだろう。
この地では、フルーツというよりも彼らの主食なのだ。
炉の上の木の網棚には、バナナ以外に矢尻、茶碗代わりのココナッツの殻、土製?の壺、ひょうたんなどが置かれ、そこに括り付けられた紐には、魚や獣の骨、球根や実が不気味に揺れながらぶら下がっている。
真っ黄色に熟れた、見るからに甘美なバナナを頬張る僕の一挙手一投足に、彼らの視線は注がれているようだ。
勿論、みんなバナナが欲しいわけではない。
一本食べ終えた僕は、隣に座っているプレマリオンに「トリヒーバ」と言って、バナナの皮をどこに捨てたらいいのかを身振りで尋ねると、彼は迅速に理解して、シャボノの外を
をピッと指差した。
その時、背後から僕の髪の毛をじれったいほどゆっくりと撫でつける感触に気付いたので、驚きはしたが慌てずに振り向くと、そこには綿を紡いでこしらえた短い腰みのだけを付けた女子供が影に紛れ込んで、僕を取り囲むようにして座っているではないか。
そのいくつかの顔たちは、男が持つ精悍さとは別の、大らかな微笑みを湛えている。
そして、小さな子供から大人の女性までのそのほとんどが、鼻の穴を左右に分けている骨板、唇の両端、下唇の真ん中といった所に、計4本の細い滑らかな木の棒を差し込んでいるのだった。
両耳たぶにも穴が開いていて、そこには棒ではなく、鳥の羽根やふさふさした木綿が飾られている。
おまけに、不思議な模様が全身にペイントされているため、暗がりに浮かび上がるその小さな集団は、僕にとってなんとも神秘的で驚異的で威圧的だ。
僕の反応を見て楽しんでいる様子の女たちの間に「ヒヤッ、ヒヤッ」という歯切れのいい跳ねるような声が波及すると、更に積極的に僕の顔、首や腕を手のひらで味わうかのように触っては、お互いに感想を述べ合っている。
ヤノマミと僕らの関係は、まさしく異邦人同志なのである。
実際に手で触って確かめるという行動は、単なる好奇心によるものではなく、触ることによって相手に対する不信感や警戒心を消し去るためのひとつの原始的アプローチでもあるように思うのだ。
くすぐったい所を触られて、じっとしているのもひと苦労だったが、何よりも僕に対して赤裸々に興味を示してくれた事が、僕の気分をハイにさせた。
ヤノマミにとって他国者(よそもの)であるはずの僕はいつの間にか、そんな排他的な観念を無視した、彼らのフレンドリーな『輪』の意識に強く惹きつけられていたのだ。
プレマリオンの母親であると明らかに物語っている、彼にそっくりな顔つきの女性が僕と目が合うなり、しきりに網棚の上の壺を指差している。
彼らは梯子を使わないと届かないので、僕に手を伸ばして取ってもらいたいのだろう。
僕は立ち上がって、何が入っているのか分からないが慎重に壺を取り上げると、「トリヒーバ」と彼女が僕に声を掛ける。
すると、その様子を見ていた周りの女たちの「ヒャッ ヒャッ」「キャッ キャッ」という喜悦の感情が、また弾むように小さく沸き起こる。
そこへ、広場の方から「ナオーキ!」というジョサフィンの野太い声。
暗がりから彼が姿を現すと「Let’s enjoy dinner,Mr. hungry !」と言って親指を突き立てた。
夕食の準備が出来たので迎えに来てくれたのだ。
こうして、何とも鮮烈なヤノマミとのコミュニケーションの記念すべき第1部は、『亀』に始まり『壺』で締めくくられたのである。
「トーリヒーバ!」
プレマリオンとその近所の人たちに手を振って、僕は拠点である本部に向かった。本部⁉︎
中央広場に差しかかった辺りから、うっすらとアインシュタインが見えてきた。
炉に薪をくべている最中のようだ。
そこには、持参した鍋がかけられていて、傍らには蚊取り線香が焚かれ、日本の夏という名の匂いを漂わせている。
近づくと、教授は僕に気付き「なんだか随分と盛り上がっていたようですね。で、どうでしたか?」と、目を丸くして興味深げに僕の顔を覗き込んだ。
「触られまくりましたよ、教授!」
「おぉそうですか…いやぁ、それは素晴らしい!ナオキ、このフィーリングとテンション。フィールドワークに於いて、とっても大切ですぞ。どんな感じだったか、詳しく聞かせて下さい」
教授が、傍らに置かれたメモ帳とペンを取り上げ、額のヘッドランプのスイッチをカチッと入れて角度を調節し直したその時、ルーチョが葉っぱにくるまった包みを手にして戻って来た。
折り畳められたその葉を広げると、無造作に切り分けられたと見受けられる切り口を持った、柔らかそうなひとつの肉の塊が肉肉しいジューシーな香りと共に姿を現したのだ。
「彼らから僕らへの歓迎のしるしさ。さぁ、ありがたく頂こう!」
ルーチョが肉を4等分している間、ジョサフィンは鍋で煮ていた豆のケチャップスープをマグカップに取り分けてくれた。
ふたりの作業を見ているうちに空腹感を触発された教授は、手にしたばかりのメモ帳とペンをマグカップとフォークに持ち替えて、眼鏡を曇らせながらスープをすすり始めた。
分け終えたルーチョは「ピクーレ!」と言って、隣にいた僕にひと切れの肉を差し出した。「旨い!」
味付けも無しに、なぜこんなにも旨いのだろう。歯応えはまるで鳥肉のようだ。
ルーチョは、隣でにこやかな顔を僕に向けている。
肉にありつけるという事は、ジャングルの住人にとってまさに『幸福』を意味しているのだ。
幸福だけでなく、喜びや悲しみも全員で分かち合うという彼らの精神は、ヤノマミの古くからの慣習のようである。
教授がもぐもぐと白ひげを微かに揺すりながら、「このピクーレという大ネズミの肉は、こんなにも柔らかいんですねぇ。ピグミー族では、獲物は時間をかけて潰した方が、より一層肉が柔らかくなると言われておるんですよ。いやいや、それにしても実に旨い!」
大ネズミ⁉︎
「ネズミって教授、どれくらいの大きさなんですか?」
僕の質問を教授から尋ねられたジョサフィンは、自分の肩幅ほど手を広げた。
僕のシリアスな視線に気付いたジョサフィンは、少し首を横に振り、特別驚くことでもないといったような態度を示している。
そこへ、この地に上陸した際に、ヤノマミの中で一番最初にルーチョのことを仲間だと認識した、あの時の彼、チャド(推定35歳)が焼きバナナを持ってきてくれたのだ。
チャドは、炉の前に腰を下ろし、僕らに1本ずつ手渡すと、残りのバナナを火の中に突っ込んで、チリチリッとオレンジ色の火の粉を巻き上がらせた。
その刹那、彼の顔が一瞬パッと火の明かりに照らされると、その顔の頬を縦に、大きな傷痕が真一文字に深く刻み込まれていたのだ。
教授は、食べようとしていた一口大の大きさのバナナを手にしたまま身を乗り出し、好奇心には勝てないといった感じでためらう様子も見せずに、その傷のことをルーチョを通してチャドに尋ねた。
チャド曰く、2年以上前に、ひとりの女性を巡って別のヤノマミのグループに属する男と争奪戦があり、その時に負った傷だと言うのだ。
一対一の勝負は、木のこん棒で交互に頭を一発ずつ思い切り殴り合うというシンプルなルールにおいて、どちらかが先にぶっ倒れてしまえば、それは敗北を意味し、女性は奪われてしまう。
『やられたら、やり返せ』
この壮絶な戦いに勝利したとはいえ、チャドも立っているのがやっとという程の怪我を負ってしまった。
相手の振り下ろしたこん棒の先端が頭をかすって、頬の肉を削り落としたのだ。
血だらけのチャドは、自力でその女性を獲得し、ふたりはその時から夫婦になった。
時をさかのぼって語るチャドの表情が豊かなのも、多彩な感情の表れだと言える。
チャドは話し終えると相好を崩し、指で傷を照れ臭そうに撫でつけながら立ち上がると、そそくさと帰って行ってしまった。
聞くところによるとチャドは、ミチミチ村で最も勇敢な戦士、言うなれば特攻隊長なのだそうだ。
その事と、彼の住居がシャボノの2箇所にある出入り口のひとつに最も近い場所に位置しているという事実は、彼の肉体に刻まれた傷の数と何か関係があるような気がした。
「過激なエピソードでしたね。争いに関してその思考形態が絶対的にアグレッシブであるという点は、ヤノマミ社会の特筆すべき特徴ですな」
そう語りながら教授は、2本目の焼きバナナを焚き火の灰の中からかき出した。
背後にいる子供たちは、先ほどから教授の白くてフワフワした後ろ髪に興味を持ったようで、無差別に互いの手を掴んでは、無理矢理その後ろ髪に触れさせようと悪戯し合っている。
熱中している彼らの中で、一際高らかに笑い転げているひとりの少年と目が合うと、彼は「キャハッ」と声を弾ませて、勢いよく両手で顔を覆った。
教授も教授で、そんな彼らの様子に気付いていない振りをしているのか、本当に気付いていないのか、よく分からないような態度なものだから子供達もますますつけ上がって、「フゥー」と教授の後頭部に息を吹き掛けて、振り向かせようと努力し始めるのだ。
少しずつではあるが、この闇の世界にもようやく目が慣れてきたようで、何やら向こうで女たちが身を寄せ合うようにして集まり、ざわめき立っているのが見える。
「何か始まりますかな」
教授は目を細めて、もぐもぐと口を動かしながら、子供達の努力が実った事を証明する、乱されたヘアースタイルを手で撫でつけて整えている。
やがてどこからともなく、とてもゆっくりとしたテンポの歌声が発生すると、3~4人ずつ横一列になって肩を組んだ集団がぞろぞろと反時計回りにシャボノを練り歩き始めたのだ。
「ニョロアニョ ニョロアニョマー
ヤレヘレ ヤレヘーレ」
繰り返される、その呪文のような歌声は、陽気に抑揚をつけて神秘的にシャボノ全体に響き渡る。
所々に決まりがあるような派手な踊りの一つも織り混ぜることなく、ただ単にそれぞれが赴くままに上半身を動かし、足を踏み鳴らしながら歩を進める女たちは、化粧をしているものの、ありありと至福の表情を浮かべているのが分かる。
本部の前を通過する時には、からかうニュアンスたっぷりに「ナイキッ!ナイキッ!」と僕に呼びかけては体をくねらせてはしゃぐのだ。
「アミーゴ、これはハピネスのダンスらしいんだ」
ルーチョから説明を受けたジョサフィンはそう言って、口元を緩ませたクールな眼差しで、ヤノマミの女達が放熱するパッションを見据えている。
教授の髪の毛(おそらく生まれて初めて見たに違いないであろう、この集落に白髪がいないのだ)に没頭していた子供達も、ごく自然に次々とその行進に吸い込まれながら、一行は膨れ上がってゆく。
決して我々に見せるためだけのものではなく、彼らヤノマミ独自のアニミズムを核とする直情径行の純粋な感情そのものの表れなのだ。
我々にとって何とも光栄なその聖なる行進は、点在する炉の前に差しかかる度に存在感を持って姿を浮き彫りにし、入れ替わり立ち替わりハピネスの鎖を途切らせる事なく一晩中続けられた。
やがて、炉の炎が丸まって小さくなる頃には、それに従うかの如く、それぞれが自分のハンモックへと帰ってゆく。
本部内には「Good Night」といった形式ばった挨拶を交わす事もなく、ただひたすら精神を解放し、この神秘的なミクロコスモスのエナジーをそれぞれがそれぞれの感性で受け止めながらハンモックを身を委ね、やがて眠りの森の世界へと誘われるのであった。