【13】

翌朝、僕は、けたたましいルーチョの笑い声で目を覚ました。
目の前には、昨晩のキャンプファイアーが浮かび上がらせていた探検感たっぷりの世界とは全く異なった、フレッシュな朝の木漏れ日が辺り一面に降り注ぐ、爽やかな世界が広がっている。
「おはようございます、教授。朝から随分と盛り上がってるじゃないですか」
「いやぁ、参りましたぁ」と言って教授は、自身が履いている片方の靴の裏を僕に見せる。
「踏んづけてしまったですよぉ」
ジョサフィンがひと足先に茂みの中に残した、大きな生理現象の"地雷"を迂闊にも教授は、思い切り踏んでしまったというのだ。
「茂みで済ませて戻ってきたら、何か臭いんです。ハッと思って靴裏を確認したらこのざまですよ」
可笑しなことに、この手の話題の盛り上がり方には国境がない。
「まぁ、"運が付いた"という風に捉えましょうかね」
と、ポジティブに切り替える教授。
朝から意気軒昂たる我々は、軽く食事を取ると焚き火の消化を済ませ、新たに僕とルーチョの2つの地雷を残してこの地を後にした。

テンションが上がらないわけがない。
何しろ予定では、今から数時間後には、ヤノマミ族との出会いが待っているのだ。
歩を進める足取りも、言わずもがな軽い。
「遂に今日という日を迎えましたね」
とんだ災難に見舞われた教授も、息を弾ませている。
「ヘリコから見下ろしていた見渡す限りの大密林の中は、このようになっとったんですねぇ」
と言い終わりかけたタイミングで、僕の後ろを歩く教授を振り返ると、尻餅をついていた。
真夜中に降った雨で、ぬかるんだ地面に足を滑らせてしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
教授は、僕の差し出した手を掴んで立ち上がりながらこう言った。
「大地が放つこの芳醇な香り…ナオキ、これが見事に忘れられなくなるんですよ。なんというこの新鮮極まりない濃厚な植物たちのエナジー…」
熱帯雨林の真っ只中に立った経験を持つ者なら誰しも、そう発言したくなる気持ちが分かるだろう。
なにしろ海馬という脳内の器官がその"エナジー"というやつを強烈に記憶してしまっているのだから、忘れようにも忘れられるはずがない。
「シャキーン シャキーン」
先頭のルーチョは、行く手を阻む蔓や木の枝をマチェーテで切り払う鋭利な音を響かせながら、茂みへと分け入ってゆく。
時々立ち止まるたびに息を整えつつ、周囲に視線を移すと、交差する頭上の木々の間から射してくる太陽の使者たちは大地に降り注ぎ、それはまるで森をデコレーションする光のアートとして活き活きとした眩さで、ついつい目を奪われてしまう。
気を緩めてうっとりしていると、陸上で最もやかましい動物と言われるホエザル(大学のアジトで教授が手にしていたあの頭蓋骨の持ち主)が、縄張りを示したりメスに対するアピールのために、発達した喉の共鳴袋を鳴らして唐突に吠えるのでびっくりする。
なんとその声は、最大5キロ先まで届くというから驚きだ。
太陽が我々の真上に到達しようかという頃、巨木がスペースを譲ってくれたかのような、青々と目に映える草の上で、僅かばかりの休息を取ることになった。
ルーチョとジョサフィンの足腰の強堅さもさることながら、65歳の教授のタフさにも目を見張るものがある。
4時間近く歩き続けたというのに、ネガティブな言葉のひとつも吐かず、呼吸の乱れもさほど感じさせないのだ。
教授は、下ろしたリュックを枕にゆっくりとした動作で寝そべると、待ってましたとばかりに、もうもうたる紫煙を立ち昇らせる。
「このスタイルはまさに、ゴールデントライアングル(タイ・ミャンマー・ラオスをまたがる国境山岳地帯。世界最大級のケシの栽培地)のアヘン中毒者のようですな」と、自嘲を決める。
僕も腰を下ろしていたのだが、ふと目にした蔓植物の多くから水が滴り落ちていることに気付いた。
僕はルーチョからマチェーテを借り、その蔓を適当な長さに切って、滴る水を口の中に垂らしてみた。
「うまい!」
はっきり言って、ペットボトルの水より遥かに清涼感がある。
自然の恵み、当然といえば当然だ。
ジョサフィンは指先でGPSを駆使しながら、ルーチョと話している。
ジャングルにコンピューターという取り合わせも、中々不思議なものだ。
無論ルーチョは、文明の利器などに頼らずとも、大体の現在位置を把握している様子で、右手の親指を折って4本の指を教授に向けながら「クアトロ(4)」と言って、左手首の腕時計をポンポンと叩いた。
午後4時頃には、村に辿り着けるのではないかというサインだ。
微塵の疲れも見せないルーチョのその人懐っこい顔つきは、彼に対する我々の信頼を一挙に増幅させるにふさわしい逞しさを滲ませている。
「もうひと踏ん張りと行きますか!さぁ参りましょう」
と、己を鼓舞しつつ「よっこいしょっ」と弾みをつけて腰を上げ、アヘン中毒者スタイルを解除する教授。
束の間の休息を得てエネルギーをチャージした我々は、今では不可欠となった防虫スプレーを全身に浴びせると、再び歩き始めた。
一行は、更に道なき道を進む。
それにしても、どうしてルーチョは、日本の国土の3分の1にあたる広さのジャングルの中で離散集合を繰り返す習慣を持つヤノマミ族(約2万人が暮らしていると言われている)の居場所を知り得ているというのだろうか?
防虫スプレーを首に噴射した際、その霧が口に入ってしまって、しきりに苦々しく唾を吐き出している教授を通してルーチョに聞いてみた。
本人曰く、子供の頃、カヌーで父親と魚釣りに出掛けた際に、猟をしていたヤノマミの男たちに遭遇してからというもの、それ以降、定期的に彼らと接触を持つようになり、やがてヤノマミからの誘いで寝食を共にするなどして親交を深めていくうちに、揺るぎない信頼関係を築くまでに至ったというのだ。
「ヤノマミ族に限らず、文明社会と無関係に生きる、喜怒哀楽のはっきりした感情構造を持った種族から信頼を受けるというのは、とても名誉なことだと思います」と力説する教授。
ルーチョが、今回の目的地であるヤノマミ族の集落-ミチミチテリ(テリは『村』の意)-を訪れるのは、約2年ぶりだという。
下りの急勾配の草むらを前にして、マチェーテを振るう手を一旦休めると、ルーチョは後方につづく3人を振り返り、こう言うのだ。
「僕の知ってるミチミチのヤノマミは、インディオ以外の人種を見るのが間違いなく今回が初めてだと思う。だから、きっと怖がる者もいるだろうし、好奇心のある者だったら珍しがって色々なアプローチをしてくるだろうなぁ。例えば…髪の毛や服、肌なんかにも触りにくるかもしれない。でも、もし彼らから触られるようなことがあったら、ラッキーだよ。仲間入りの第一歩さ。びっくりしないで素直に受け入れた方がいい」
了解。望むところだ。
「それと、もうひとつ。『ヤノマミ』とは『人間』という意味なんだよ」
それを受けてジョサフィンが野太い声で、「なぜ、ヤノマミが『人間』と訳されるのかは、やがて…いや、すぐに分かるはずさ」と言いながら、慎重に且つダイナミックにルーチョに続いて斜面を下りて行く。
教授は転びそうになりながらも、「確かにスキンシップという行為は、根源的なコミュニケーションメソッドと言えますな」と付け加える。
斜面を下りきった僕は、オブジェのように奇妙な形に発達した馬鹿でかい板根を伝いながら、誕生したばかりの地球が、ノアの箱舟が流れ着いたという伝説でお馴染みのエデンの園だった時代へと、想像を遡らせていた。
すると、先頭のルーチョが急に立ち止まった。
彼の視線の先を見ると、いくつかバナナの皮が落ちている。
が、その辺りにはバナナの木なんてない。
しかも、すべてが明らかに人為的に皮が剥かれ、中身だけが食べられているという状態なのだ。
そう、紛れもなくヤノマミ族が食べたのである。
「アイェール(昨日だ)」
僕は、ルーチョのその言葉を聞くまでもなく、すでに教授やジョサフィンらと顔を見合わせ、鼓動の高鳴りを全身で感じていた。
今こそ、文明に隔絶された原始の国の未開の奥地に住む人々(1960年代後半までは『野蛮人』と見られていた)の、テリトリーに入っているんだという実感に包まれる。
そして、幻とリアルの間にいるようなハイな感覚が、次第に僕の身内に込み上げてくるのだ。