【6】

出発に向けてのそれからの3週間は、慌ただしく過ぎた。ビザの手続きをしたり、保健主管庁によって指定された予防接種実施施設へ教授と共に注射を打ってもらいに行ったり、荷物のチェックをしたりと、時間的な忙しさというよりも興奮と緊張とが奇妙に混ざり合いながら、あっという間に過ぎていった。
出発前日は、教授の丸太小屋に泊めてもらい、ふたりに共通する形容し難い混沌としたフィーリングを分かち合った。
翌日のフライトは夕方。
僕らは、なんだかんだ午前3時過ぎまで眠ることができなかったが、熟睡なんか出来るはずもなく4時間ほどしたら目が覚めてしまった。
"遠足前の何とやら“というやつだろうか。
お借りした教授のベッドを整えていると、
孵化したばかりのヒナのように濡れしぼんだヘアースタイルの教授が、シャワーを浴びた直後よろしく「身を清めましたぞ」とひと言。
教授も、早速浮き立つ想いに駆られているご様子。
荷物は昨晩すでに車に搭載しておいたので、手短に身支度を済ませて、我々は一路、成田空港へ向かっていそいそと丸太小屋を出発した。
ハンドルを握る教授の面持ちは、長年にわたって培ってきた自信と希望がみなぎり、これから始まろうとする冒険にきっちりと照準を合わせた、衰え知らずのバイタリティーを感じさせている。
車に乗り込んだ時から、教授はすこぶる機嫌がいい。というのも、彼が愛聴しているAFN(在日米軍向けラジオ局)はこの時間帯、往年のブラックミュージックを特集していたからだ。
運転しながら教授は、一服くゆらせようと上着のポケットからパイプを取り出したかと思うと、「Oh,my gosh」とぽつりと一言呟いた。
反射的に口走ってしまったのだろう。
この短い言葉の中に含まれる想いは、パイプを握るその手を一瞬固まらせた。
「Wow…B.B.キングではありませんかぁ!
いやぁ信じられませんねぇ、こんな時に…この曲……"スリル・イズ・ゴーン"でしたかね、たしか…うんうん」
横を向かなくても教授の笑みが分かる。
『B.Bのギターから絞り出されるこの音色は、彼の激情そのものなんですな。まるで、自らの過去の暗闇に招き寄せられる…うーむ、何と言いましょうか…痛みに似た感覚と格闘しているかのように、私には聞こえてなりませんですよ。ブルースは一種の"悪魔払い”と言っていいでしょうねぇ…いやいや、懐かしいですなぁ、実に気分がいい」
ご満悦の教授は、少し窓を開けて、新しい空気をひとつ吸い込むと、カーステレオと情緒のボリュームを少し上げたのだった。

無事に成田空港に着いてからは、旅慣れた教授に従って、スムーズに諸手続きを済ませ、予定通りにマイアミ行きの便に搭乗し、僕らは機上の人になった。
機内には、以前ホームステイでアメリカに行った当時の心情をフラッシュバックさせるかのように、あの時と同じ印象的な匂いが漂っている。新車の車内のような清潔感…他の匂いに邪魔されることを拒むかのようなこの機内の空気が、僕は嫌いではない。
しかしながら、鼓膜を盛んに圧迫しつづける、何ともいたずらな気圧の変調には困るばかりであったが…。

機長の紳士的なトーンのアナウンスは、定期的に現在の飛行状況と順調にマイアミに向かっていることを報告することで乗客に安心感を与え、CAは笑顔を絶やすことなく業務に従事し、テキパキと狭い通路を行き来している。タフだ。
隣の教授はといえば、靴だけにとどまらず靴下まで脱ぎ捨て、膝にブランケットを掛けてリラックスした体勢でずっと読書にふけっている。タイトルは『アフリカの最後の恐竜』…んー、なるほど。
表紙カバーのない、分厚く古めかしいその本は、ブランケットの上で、座席に取り付けられた個人用の小さなスポットライトの明かりを受け、消灯した機内でぽつんと浮かび上がっている。
浮かび上がっているといえば、座席の上に点灯する『NO SMOKING』のサイン。
教授は、"煙”を取り上げられてしまった腹いせに、ガムを噛みまくっているご様子。
忙しなく上下に動きつづける白ひげは、まるで生き物のようだ。
僕はといえば、日本で事前に行った4種類の予防接種の証明書や、注射を打ってもらいに行った際に渡された注意事項などが書かれたプリントを眺めていた。
そこにはこう記載されている。
『狂犬病に感染した人は、どのような症状を示しますか?……強い不安感、一時的な錯乱、水を見ると首の筋肉が痙攣する(恐水症)、高熱、麻痺、運動失調、全身痙攣が起こります。その後、呼吸障害等の症状を示し、死亡します』
予防接種は、絶対に受けておくべきなのである。
それにしても、国際線というのは、実に様々なタイプの客を乗せているものだ。
国内線の乗客に比べると、どんな職種の人なのかが、見た目からは断然読めない。
特に外国人は外見だけでの判断が難しいし、ヒントになりそうな点に頼ることが出来ないという、一筋縄ではいかない面白味がある。
当然スーツを着ている人が皆、サラリーマンではないし、逆にスーツは身分や個性を隠してしまうので、その当人の素性を想像して探るという人間観察が、機内に限らず電車やバスなどの空間での有効的な暇つぶしになるのだ。
ふと横を見ると、いつの間にか眠りに落ちた教授はすっかり脱力して首を垂れ、よく見ると膝に掛けられたブランケットの上に、口から零れ落ちたとお見受けする、最早ただのゴムと化したガムがぽつんと落下している。
"gum returned to rubber”
僕だって、昨夜の寝不足が祟って、レム睡眠とノンレム睡眠の狭間を行き来しながら、よだれを垂らしては拭き、垂らしては拭きを繰り返す始末。
そんな折、シートベルトの着用を知らせる"プォーン”という音と共に、
『We get ready for a landing』という落ち着き払った機長のアナウンス。
我々は何かを吹き返し、眠りの淵から生還した。
着陸直前の上空から見下ろすアメリカ屈指の巨大観光都市は、おびただしい量の電力を消費させて、夜の闇の中で発狂した夜行虫の如くメラメラとオレンジ色に燃え広がり、それぞれが意志を持って発光しているように見える。


朦朧とした寝惚け眼で、ブランケットの上のガムの残骸に気付くとそいつを紙で包み、そそくさと靴下を履く教授。
日本を発ってから半日以上を費やし、ついに我々は夜のマイアミ国際空港に到着した。
空港自体も、いわゆる嗅ぎ慣れない外国の匂いというのが漂っている気がする。
そんなことでさえも、旅情が更に刺激されるというものだ。
イミグレーションへ向かう足取りが随分重めな教授の後ろ姿は、さながら試合を終えて控室に戻るアマチュアボクサーのようだ。
僕の方はといえば、ずっと興奮の中に居るからなのか、長旅の疲れは思いのほか無く、なによりも視界に日本語の文字が一切入ってこないという事自体にワクワクが止まらない。
そんな風情の僕を振り返り察知しつつ、教授は「ふぅー」と大きめにひと息ついてひと言。
「いやはや疲れたとしか言いようがありませんなぁ」
時間の経過に従ってじわじわと窮屈さを増すエコノミーシートの束縛から逃れて、ようやく辿り着いた異国の地。



我々は予定通り、そのまま空港のホテルに宿泊し、翌日、ベネズエラの首都・カラカスの北にあるシモンボリーバル国際空港に着いた時には、午後の5時を少し過ぎていた。
見回すと、英語よりも途端にスペイン語表記が目につき始め、それが更に胸を高鳴らせる。
「早く外に出てみたいですよ、教授」
「a watched pot never boils ですぞ、Mr.ナオキ…分かりますかな?
見られているポットは沸騰するはずがない…つまり焦っても仕方がない、"焦りは禁物“ということです」
手荷物受取所のターンテーブルの前で、荷物が出てくるのを待っている間、機内でクリーンナップした愛用のパイプを両手で弄びながら、ミスタースモークは語り始めた。
「ベネズエラはその昔、原油などの資源が豊富で、中南米で最も豊かな国と言われていた時期もあったんです。がしかしぃ、オイルマネーに頼り過ぎてしまったために、国内独自の産業が発達せず、やがて原油価格が暴落すると、
たちまち経済は悪化の一途を辿るんですな。その原因は経済状況が悪くなったことで失業者や貧困者が増加したからだとされています。それによって治安が悪くなってしまう。つまり、我々旅行者は道中、常に細心の注意を払わねばならないという事です。
アクションを起こす前に、今一度現状を見回して落ち着いて行動することを心掛けましょう!キミの背中のリュックも前に抱きかかえた方がいい」
「分かりました…肝に銘じます!」
さらに教授はつづける。
「しかし、その一方でこの国の奥地には、未だに文明が及んでいない手つかずのジャングルが広がっているという事実が、実にワクワクさせるじゃありませんか。その対極の二面性こそが、ベネズエラの特徴でもあり、何とも興味深い点と言えるでしょう」
色んな意味で、日本に居ては決して味わうことのない独特な緊張感が、心の内で鎌首をもたげ始めてきた。
ターンテーブルから荷物を持ち上げる僕を伺いながら、
「空港の中のコーヒーショップで、18時に人と待ち合わせています。店の名前は…えー……」と言って、教授は腰に巻き付けたウエストポーチからメモ帳を取り出し、そこに書かれた店名を、目を細めて確認すると「あ、アミーゴですな」と言って微笑した。
無事に税関検査を通過して、リュックと警戒心を抱きかかえながらキョロキョロしているとすぐに店を見つけることができた。
コーヒーショップ『アミーゴ』は、世界各国からの旅行者(リゾートなどとは無縁と思われる)で若干の賑わいを見せている。
教授は、目ざとく喫煙シートを確保すると「スモーカーにとっては、なんとも肩身の狭い世の中になったものですなぁ」と零しながら、強制的な禁煙の世界から解き放たれて、自らが吐き出す煙に思う存分まみれている有り様だ。
時刻が18時になろうかという頃、待ち合わせたその人物は、約束通り現れた。