前回は重複した内容を書いてしまってすみません。![]()
今回は病院で掛かる最後の費用を書きます。
脳梗塞で意識がないように見える状態でも、母には毎日、理学療法士によるリハビリが行われていました。人間の身体は動かさないとすぐに硬くなってしまうそうで、死ぬまで続けられそうです。
両足には血栓予防の空気圧マッサージがつけられ、食事ができないため鼻からの管で高カロリー栄養が入れられていました。
それでも母は誤嚥を繰り返し、誤嚥性肺炎を起こしていました。
これが症状悪化の大きな原因になったようです。
私は毎日、会社帰りに病院へ向かいました。話すことはできなくても、「刺激を与えてください」と言われていたので、母の好きだった童謡やフォレスタの曲を聞かせました。
すると、母は音楽に反応し、歌おうとするのです。苦しそうな表情の中でも、なぜか英語の「エーデルワイス」には特に強く反応していました。なぜ、英語なんだろう![]()
■ 危篤の連絡と、病院で迎えた最期の夜
ある朝、通勤途中に病院から電話が入りました。
「昨夜から悪くなっています。もう、長くはもたないかもしれません。」
その一言で、私は急いで引き返しました。
その日は病院から「泊まったほうがいい」と言われ、初めて病院での看取りを経験しました。父のときは自宅だったので、すべてが初めてで、まるでドラマの中にいるような感覚でした。
モニターの音がずっと異常音で、あの電子音は今でも耳に残っています。
医師からは「もう点滴を打てる血管がありません」と説明されました。
つまり、これ以上の治療はできないということ。
このことなんです、前々回で書いた採血ができないこと。
加齢でだんだん血管が弱くなります。
私でさえ、最近採血しずらくなっています。血管年齢は大切ですね。
母は元気なころから「延命処置はしないでほしい」と言っていました。
その言葉を思い出し、私は医師に「とにかく苦しくないように」とだけお願いしました。
■ 最期の瞬間に伝えられた「ありがとう」と「さよなら」
食事を止めると、身体は急速に衰弱していくそうです。
やがてモニターの音が変わり、異常音に切り替わりました。
母に近づくと、心拍が止まりました。
看護師さんから「耳は最後まで聞こえていますよ」と聞いていたので、
私は母に「ありがとう」と「さよなら」を伝えました。
その瞬間、
母は私を娘だとわかってくれた
そう感じました。
■ 夜間の看護体制と、ひとりで看取ったことへの葛藤
夜間は看護師さんが少なく、仮眠室にいるようで、モニターが異常音を出しても誰も来ませんでした。ナースステーションにもだれもいません。ただ、母のモニターの異常音が鳴り響いています。ちょっと、怖かったなあ。
ナースコールを押して、ようやく来てくれる状態。
「私だけで看取ってよかったのか」
そんな責任感が今でも残っています。
母が亡くなったのは、いわゆる丑三つ時でした。
■ 死亡確認、エンジェルケア、そして病院の現実
医師が来て死亡確認を行うため、実際の時刻とは数分ずれます。
その後、看護師さんがエンジェルケアをしてくれました。
着替えを持っていなかったのですが、病院から浴衣を「プレゼント」として使わせてもらいました。
しかし後日、清算に行くと15000円の請求があり、浴衣代や病室から安置所までの移動費が含まれていました。
ほんの短い距離でも葬儀屋が来て運ぶため、費用がかかるのです。
安置所で葬儀屋を待つ間、私は母の顔を整えていました。
口角が上がるように、しわが伸びるように、最後の娘としてできることをしました。
そのおかげか、葬儀のときに親戚から「しわがないね」と言われ、
いとこには「私のときも頼もう」と冗談めかして言われました。![]()
■ 地下での見送り──看護師さんの涙
最後に、車で母が病院から出るときには
夜勤の看護師さんがわざわざ地下まで降りてきて、見送ってくれました。
その姿に私は驚きました。
そして、看護師さんは泣いていました。
母のことを気にかけてくれていたのだと思うと、胸が熱くなりました。
ちなみに、病院から葬儀場へ運びますが、途中家の前を寄ってくれるそうです、
ただし、費用が追加されます。
母は、毎日家に帰りたい帰りたいと言っていたので、寄ってもよかったのですが、
私のブログとおり、もう、家は建て替えしてしまったので、寄ってもね。
それに母の帰りたいは、どうも自分の実家のようで。認知症の人にとっては
今の家じゃないです。
私は家に帰ったのは朝の4時でした。
長い1日ですした。これで、私の8年間の介護生活は終わりました。