バルザックのゴリオ爺さんを読んで、そしてもう一回最後の方だけ流して読んでみた。

娘2人を溺愛するあまり、自分の築き上げた財産も自分の年金もすべて娘に継ぎこんで、

娘2人はゴリオさんを少しも愛していないのをゴリオが人生の最後で、死ぬ寸前に悟ったというか

思い知ったという話だった。

 

ゴリオさんは奥さんが早くに亡くなり、後妻さんもいなかったらしい、娘だけに人生の生きがいを見出し、

まずそこが間違っていると思ったけど、

そういう気持ちになってしまうのは仕方がないだろう。

 

娘2人は相当美しいという設定なので、

その美しさに見合った、報われる人生であってほしい、その美貌に相応しい世の中の扱いを受けて欲しい、

とゴリオさんは思ったんだろうな。

それがその時代のパリだったら、裕福な貴族の妻としての人生ということになるんだろうな。

 

娘を愛する気持ちが恋愛に酷似しているのと、

歯止めが効かなくなってしまったのが

ゴリオさんの人生の病的なところだったと感じた。

見なくていいもの、見たくないものを見てしまった感覚が抜けない。

 

私自身はこんなふうに、歴史的に世界的に評価されている文学作品でさえも、

自分の言葉や感じ方で勝手に語ってしまうところがあって

周りがこの作品をどう扱うかとか、言葉を選ぶとか、

全く気にしていない。

 

あくまでも自分と、自分の読んだ対象物。

 

ゴリオさんは本当に奥さんを愛していたんだろうな。

ゴリオさんは素朴な愛情で十分生きていける人だったんだろうな。

パリの社交界、おそらく地球のどこでもそうかもしれないけど

悪魔的に人をダメにする場所だったんだろうな。

 

何かになりたいとか

オーディアンスに評価されたいとか

自分が自分でないものになろうとすると

どこかで一線を引けないと

いつのまにか魂を抜き取られてしまうんだよね。

 

そういう生き方が不幸だということをゴリオさんは理解するような知性もなかったということなんだな。

 

溺愛ではない愛し方は難しい。

本当に魂が自立した人にしかできないものだ。

ゴリオさんは娘たちに見返りの愛をもとめていた。

拠り所は普通に人には必要なんだろうな。

かといって、自分の幸せだけが最優先で人を犠牲にする生き方は、もっと恐ろしい。

バランスが大事だと思う。

深く考えさせられた。