中島英之訳のゴリオ爺さん

をipad proで電子書籍で読みながら同時に平岡篤頼訳のゴリオ爺さん

 

 

 

を読んだんだけど、言い回しが妙に違うところがあって。

たとえば
中島;注目に値するのは、感情が聖水の灌水の力を持っていたことである (200) 
平岡;ひとつ注目に値するのは、感情というものの持っている浸透力である 
 
自分的には平岡さんの訳の方があっていたかな。
 
物語が展開する時代は、1819年。
『ゴリオ爺さん』は、田舎からパリに来て、なんとか社交界に潜り込みたい法学部の学生ラスティニャックと、
金持ちと結婚したゴリオ爺さんの娘たちと、ラスティニャックとゴリオ爺さんの住んでいる貧乏下宿の人たちなどの織りなすどたばた喜劇。
同じ人なのにファーストネームで書かれていたり、呼び方をころころ変えて書かれているので、
そのたびにボイスを携帯に入れて確認しながら最初は読んだ。
人間関係が簡単なので読みやすかった。
 
ゴリオ爺さんは真面目で良い人で、狂ったように娘二人を溺愛する、モンスターパパ。
途中でそれが変態的な域にまで達し、本人はそれを変態と思っていないあたりがきしょい。
だんだん表現が怪しくなるところがあって、気分が悪くなった。
でも、
ゴリオ爺さんの言ったことで唯一好きな場所があって、それが読めたからこの本を読んでよかったと思った。
青年ラスティニャックがゴリオ爺さんに、
ゴリオ爺さんは富を築いているのにどうしてこんな粗末な下宿にいるのかと聞いたところ
彼はこういうんだ。
「こういうことについて、私はあまり、あなたに詳しく説明できるとは思えない。
私はほんの少しの言葉でも申し分なくすらすらと話すことができんのです。」
私はここに、切ないほどの人間味を感じたのである。
 
娘二人が大人になっても恋人のように溺愛し、他に何の生きがいもなさそうな素朴なゴリオ氏、
退屈な感じの大人ではあるものの、彼の放った言葉は胸に突き刺さった。
 
最近、ネットをみてもどこを見ても、
日本人の、特に、男性の、一部のオピニオンリーダーを気取っているような人たち(失礼)が話していることって
本当に薄っぺらで、
言葉は巧みだけど温かみも、人の背景への理解もない人が多いと思っていたので。
人の話って、論破したり、ぶちのめすことが大事ではなくて
その人の一番苦しんできた背景を感じ取ってあげる器とか
人が生きていくための勇気や元気や知恵をシェアしてあげたりすることが大事なんじゃね?
 
ゴリオさんはうまく表現も説明もできない人ではあるらしいが
製麺で財産を築き上げた、とても真面目な人で、すごく愛している人間がいて、
その深さは人の心を打つこともあるんだなーーーと思ったのだった。
 
でもその割にゴリオ爺さんは、饒舌なところもあって
狂ったように一人で演説しはじめて
なんだ、よく表現できているじゃん、というところもあって矛盾が多いよね、
それもまた憎めないところなのかな。
 
それから、青年ラスティニャックが、金持ちの女性に気に入られるために
「這いつくばれ、あらゆることに耐えるんだ」などと言いながらがんばるところが妙に滑稽で
カフェとかで読んでいてもつい、顔がニヤニヤしてしまったりした。
いまもこういうのって、
あるあるだなと思った。
 
最後は読み飛ばしてしまったが、
(本当に分厚い本だった。そろそろ時間ないので損切りかなと思って適当に終わった)
最後の段階になるとネタバレになるので書かないけど、
なんか自分の期待値からみると、
すごくつまらない感じで、終わったと思う。
最後のほうになると、ひねりがないというか、意外性がないと感じた。
このおじさんが、
ゴリオ爺さんと呼ばれてしまうわけがわかるような気がした。
 
次はバルザックの、人間喜劇の、違うのを読もう。