注:これから先は筆者の主観に基づいた「自殺」に対する考察が書かれています。
一部過激な表現も入る予定なんで不快に感じるかなぁって人は読まない事をおすすめします。






いや、そんな大層な事は言わないんだけどね。


なんか、「死」ってものが軽い気がする、最近特に。


いや、昔は重かったかなんて若造の俺がわかるはずもないんだけどね。(苦笑)


ただ、自殺者達は「死」に対して何を求めているのかなって。


ううん、もしかしたら自殺を行うコンセプトの中に「死」っていうものが入ってないんじゃないだろうか。

一時期自殺志願者だった頃の俺を思い出してみても、死ぬまでに感じる痛み、苦しみに対する恐怖はあれど、「死」に対して具体的、あるいは漠然的な恐怖を持ち合わせていなかったように思えるし。


死ぬまでというのは文字どおり「死」という状態になるまでのことを指すわけで、すなわち恐怖の対照はあくまで「生」の中にあるわけじゃん?

そしたらその時の俺は状態変化のプロセスには恐怖しても変化後には恐怖してなかったことになる。

今日のドラマや小説で自殺、あるいは未遂のシーンがあっても恐怖の対照は「生」として描かれていることがほとんどな所を見るとどうやら客観的な立場から見ても恐怖の対照に「死」は入っていないようだ。


勿論全ての自殺者、及び志願者の恐怖の対照が「生」にしかないわけではないだろうが、では「死」という状態に対して恐怖する者はそれでも自殺するのだろうか?


― 今でさえ十分に不幸なのに、そんな仮定の世界が今より不幸ではないなんて良く言えたものだ ―


これは今自分が講義を受けている哲学者が十年前にだした本の中で言ってた言葉だ。


まぁ実際「死」なんて、完璧未知なるものなわけで、そんな状態(かもしれないもの)に自らをおくことを全力で考えた時、それでも自殺できるのかなって。

自殺者が乗り越えた恐怖は、読んで字の如く「自らを殺す」恐怖なのではないか。

彼等の中にもし「殺」の中にはらむ「死」が見えていたのなら、自殺はしなかったのかも知れない。




って思いました。

ま、ようはね。「死」ってこわいんだよってことだぁよ。

論じられているテーマのほとんどのが「生」に集約されているのであえて考えてみた。