前回の続きかな。
人間生きていくことは前提だという人もいました。何故前提なのか論証する為に生きなければならないとか。

トートロジーっぽい話ですが一応はうなずけます。また彼は、生きているだけで道徳的価値があるともいっていました。生きていくことに苦痛や疑問を感じない人間の生に価値はないが、それを感じて尚生きることは価値があるとかなんとか。

まぁ、青二才が徒然と書くより、中嶋義道『カイン』を読まれた方が早いです。

文の始まりで何となく『若きウェルテルの悩み』を思い出しました。ま、ウェルテル死んじゃうんですけどね。

カインとアベルについての本が欲しかったのにとんだミスチョイスでした。ギドー先生の本ってだけでにやついてしまいこの様です。

ただ、いろいろと面白いです。
哲学科に入ってすぐの頃、僕は中嶋先生に無になりたいのだと相談をしました。
すると先生は、私が最も恐れていたのは無ですと答えてくださいました。

僕は理解が出来ず、何故無を望むのか、永遠の命や死後の存在がどれほどの恐怖かを先生に伝えました。

すると先生は、それらは私が望むものだとおっしゃられ、続けて思考出来なくなること、自我の消失こそが怖いのだと僕に言われたのです。


そうして僕は一時の混乱を経て、あぁこの方は僕の立っている彼岸をゆく者なのだと感じたのです。


ま、どちらの考えも推奨しませんけどね。ただ、『カイン』では先生の赤裸々な考えが数多くちりばめられており、それらに気付く度、一年前のその会話を思い出すのです。

大学院生や教授の内で、学部生が抱く青い衝動や怒りを真っ直ぐに受けとめてくださる方は少ないので嬉しかったですね、アレは。

別に禁煙キャンペーンの記事とかではないです。自分も喫煙者ですし、禁煙する気はそんなにないですからね。


タイトルは同じ学科の友達が言ったセリフです。本当はもっと長く


(煙草吸っていれば30歳までには死ねるかもねという僕の言葉に対して)
「実際それ目当てなところもあるかな。色々格好悪いからおおっぴらには言わないけれど、俺にとって禁煙は緩やかな自殺だから。」


と答えてくれました。補足すると、我々は早死にが望みなんです。理由は違うでしょうが僕に限っては無になりたいので。


自殺したり、衝動的殺人をした人に対して、異常というレッテルを張って安心感を得るのが、現代社会における処世術でしょうが、僕は何処か負けた気すらします。


哲学をして何になるとよく言われますが、何になる為に生きているかわかっているからそれぞれの専門にいくのですかね、他の人々は。
僕は差し当たり絶対的な基準がまだないので、もうしばらく模索する為にここにいます。

しかしそう答えると、大抵小馬鹿にされるか、あるいは面倒くさそうな顔をした後話を流されます。そうして僕は益々安心して哲学に勤しむことが出来るのです。

現代のスラングでいうのであれば厨二病乙といったところでしょうが、古代ギリシャからそんなのいわれ続けているのですよ、哲学なんて未熟のガキがすることだとね。


なぜなら生きていく上で哲学なんてものは何の役にも立たないから。しかし生きていくことが前提ではない我々にはそのような非難全く意味を為さない。
生きることが正しいという論証が主観的にであれ為されるまで、惰生を続けるでしょう。


当面の目標は両親との折り合いです。恩義は返さなければと思うのですが、金ではない気がするのですね。
自分が自分のものになるにはどうすればいいのかの答えを模索中。


ま、そんな理由もあって不可抗力の死目指して煙草水続けます。(笑)