小林正観さんが亡くなられたってことに


驚きました。


誰もが、いつかは亡くなるって分かりきっていても


訃報に触れると、やっぱり驚いてしまいます。





今でも、まだまだ練習中ですが


以前の私は、ジャッジの塊で


とにかく何事も正しいのか間違っているのか


それで良いのか悪いのか


しゃかりきに働く裁判官よろしく


ジャッジしまくっていたのでした。


ジャッジの後には、当然、悪いとか


間違っていると判断した物事や人に関して


憤りを感じていた訳で


とても傲慢な生き方をしていました。


でも、それはとても苦しくて辛くて


そんな生き方から発生するのは


自分自身を縛る鎖でした。


自分が正しく生きていなければ


ジャッジする基準がおかしくなると


信じ込んでいたからでした。


そして、絶対に許せない!って人や


出来事から離れることが出来ずに


ずっとエネルギーを使い続けていたのでした。




そんな時に、ふーみんが貸してくれた本が


小林正観さんの本だったのでした。





小林正観さんは悟りは3秒あればいいと


書いていたのです。



「あっそう」って言うだけだって。


悟りとは受け入れるってことだとも・・・。


正直なところ、最初は『はぁ???』でした。


長年の息苦しい生き方をしていた私の


この苦しさが誰だって3秒で受けいれて


苦しみがなくなるって書いてたんですから。


『そんなの今までの私の人生が


アホやったみたいやん!』と


腹さえ立ちました。




でも、どうしても心惹かれてしまうのを止められずに


色々と読みました。




うっすらと見えはじめた私なりの解釈が


受け入れるって事は、


その人がやったり言ったりしたことを


正しいと思うことでもなく、


「参りました」とひれ伏すことでもなく、


「あっそうなん」と、その人や出来事なりの


発信を拒絶せずに受け入れたり受け流すことが


正観さんの言う『受け入れる=悟り』じゃないかと


感じ始めました。




それを発端に、私はあまりにも相手のことや


出来ごとの背景を知らなさすぎなのに


ジャッジし倒してたんやなぁって感じることも出来、


ふと、私とて相手と全く同じ経路をたどって来たとしたら


その人と全く同じ発言や行動をとるしかなかったんじゃ


なかろうか・・・・という視点を持てた時に、


光が差し込み視界が広がった思いがしたのでした。


この光が差し込むことこそ明かりがさす・・・というか


『明らめる』の本来の意味じゃないかと思ったのです。


仕方が無いと「諦める」の「あきらめる」じゃなく


本当の『明らめる』を感じたのです。


仏教用語では『無明』とは『知らないこと』だそうですから。


その『無明』と対をなす言葉が『明らめる』。


明けましておめでとうございます!な気分でした。




自分を縛る鎖は随分細くなりましたけれども


まだ、縛っているのを見つけることがあり


どんだけドMやねん!と笑うこともあります。




こう言いつつも腹が立つこともありますし、


憤りに噴火することもあります(^^ゞ


今読んでるのが『幕末維新の暗号』だし、


子宮頚がんワクチンも受けさせていません。


原発ゼロを要求する署名もしています。



寒いな・・・と思った時に


「寒いと感じてるな。うん」よりも


厚めの靴下を履くとか、膝かけを掛けるとか、


ストーブをつけるとか


より心地良くなる方法を実行したいですから。


感じて行動することが


この世の醍醐味だとも思いますし。



そんなこんなのことに思いを馳せた


朝なのでした。






小林正観さん、今頃、どんな感じなのでしょう。


とっても知りたいです。