⭐︎文中の引用文に、以下の間違いがありました。

修正しています。


×一片のよ抱いていない

◎ 一片の憎しみも抱いていない

 

私は体ではない。

私は自由だ。

 

ACIMのワークブックに登場する、印象的な言葉です。

 

かっこいいけど、それが真実だなんて思えない。

どうすればいいのかなぁ…?

うーんもやもや

 

そんな思いが湧いたら、これを思い出しましょう。

 

 

あなたは自分自身を

目覚めさせることはできない。

 

しかし、自分が

目覚めさせてもらえるように

することはできる。

テキスト29章Ⅲ3:2-3

 

 

「私は体ではない」と”直接的”(あるいは「自己完結」的)に理解するより、他者を通してそれを経験する。

 

ACIMは私たちに対して、このように勧めています。

非常にユニークな観点です。

 

それなら自分以外の誰かを、「体ではない」って見るのかな…?

乙女のトキメキ目

 

 

あなたは、

自分が見ているものが

どのように生じて自分の目に入るのか、

理解していない。

テキスト31章Ⅵ3:6

 

どうもわれわれニンゲンってやつは、自分が思う以上にわやくちゃらしい。

そもそも知覚がどのように成立しているのか、把握していないようです。

 

この状態で「あなたは体ではないと見る!」なんてはりきっても、結果はビミョーかもしれない。

 

虫めがね凝視気づき

ちょっと!そこのあなた。

体じゃないんですよね?

 

なんて言いつつ相手をジロジロ見ても、不審者扱いされるのがオチでしょう。

 やめて通報されるから!

 

そこでACIMからの「助け舟」です。

 

 

 その人を、罪のない者として見る

 

 

今回は、この実践について考えたいと思います。

 

 
 
 
「体」という単語こそ登場しませんが、この実践の意図がよくわかる箇所を「原典版(Urtext)」から引用したいと思います。
 
「もう片方の頬を向ける」とは、手向かわず暴力に甘んじろという意味ではない。
その意味は、以下のようなものだー
 
自分が傷つくなど、そもそもあり得ない。
かつ、自分は兄弟に、自分たちの全一性(ホールネス)(*)のみを示すことを望んでいる。
(*)「一体」(ホール/whole)であり、分離していない
 
(この意味のとおり)彼があなたを傷つけるなど決してあり得ないことを、そしてあなたが彼に対して一片の憎しみも抱いていないことを、彼に示しなさい。
さもなければあなた自身、自らに憎悪を抱くことになる。
 
Turning the other cheek does not mean that you should sbumit to violence without protest. It means that you cannot be hurt, and do not want to show your brother anything except your wholeness.
Show him that he cannot hurt you and hold nothing against him, or you hold it against yourself. 
 
Urtext Manuscript 
T5F11
日本語訳、注釈ともに筆者
太字は原文による
 
この部分、FIP版(邦題「奇跡講座」)テキストでは5章Ⅳの段落4に収録されています。
編集されているため多少表現の違いはありますが、内容としては同じ。
 
とはいえ、私には上に引用したバージョンのほうがより率直な語りクチに思え、こちらを採用しました。
それ以外の意図はありませんので、念のため。
 
引用文冒頭の「もう片方の頬を向ける」は、新約聖書の一節。
「あなたの敵を愛せ」と同じ文脈で、イエス自身が語ったとされる言葉です。
 
悪人に手向かってはならない。
誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。
(マタイによる福音書5:39/新共同訳)
 
よく引用される、非常に有名なフレーズです。
 
クローバー
 
ともかく、その人に「罪がない」のは、その人の言動が自分を傷つけないから
 
自分をイヤな気分にさせ、苦しめるという「罪」を、その人は犯していない
 
相手がなにを言っても、やっても、自分にはなんの害もない。
実践者として、自分はそれを表現したい望んでいる。
 
なにをされても平気なフリ…ではありません
ほんとうにそうなのだと示したい
 
そして実践者は、自分のその「願望」の通り相手にそれを示します。
 
これは同時に
 
「あなたと私は分離していない」
 
という真実の表現でもある。
 
引用文にある「全一性(ホールネス)」
これは、分離の否定です
 

 

 「罪の否定」は、完全イコールで「分離の否定」

 

 
「相手を罪のない者と見る」実践は、このような基盤の上に成り立っています。
 
クローバー
 
罪の否定である「贖罪」は、愛の行為だとされます。
(テキスト2章Ⅱ4)
 
この「愛の行為」の実践は、
 
  • 愛だけを教えなさい。(テキスト6章序13)
  • この絵をあなたの兄弟に見せなさい。(同27章Ⅰ5)
 
こうした表現で繰り返し語られています。
 
ACIMの学びは理論の学習に負うところも大きいですが、しかし実践も同様に大切なのです。
 
ということで、まずは自分にそっとこう聞いてみましょう…

 

    
私はほんとうに、この人を
罪のない者として見たいと
願っているだろうか?

テキスト20章VII9:1-2
日本語訳は筆者