「おこめの本棚」回。
ACIMの話も、後半に出てきます
今日の一冊は…
この本、原題をそのまま日本語にすると
こんな感じでしょうか。
著者はアメリカのセラピスト。
発売以来のベストセラーなんだそうです。
カバー裏では
「自分勝手で成長しない親」をもったすべての人たちにとっての「回復の書」として熱烈な支持を集める
本書はこう紹介されています。
近ごろ日本では「毒親」というショッキングな言葉が話題ですよね。
いろいろとすごいネーミング。
しかし本書では、この「毒親」という言葉を使っていません。
そのかわりに「精神的に未熟な親」。
「未熟な親」は、子どもにとって好ましくない影響を与えます。
それを「毒」と呼ばずして、何と呼ぶ…?
そうに感じている「子ども」たちは、大勢いると思います。
私自身、自分の親がこの「精神的に未熟な親」だったと理解するまでに時間がかかりました。
わかっているけど、なかなか認めたくないー
わけではありません。
自分がそんなにも強く親の影響下にあることじたいに、自覚が及ばない。
自分自身を相対化することが難しいのです。
親は、そもそも子どもにとってたやすく客観視できる存在ではないのでしょう。
しかしながら本書のポイントは、この「親に対する客観視」にあります。
自分が抱えている苦悩は、
「精神的に未熟な親」を
客観視できないことと
関わっているのかもしれない。
読者にこの観点を少しづつ紹介し、親を客観視する方向への誘導を試みます。
本書によって、
少し離れた視点で、
親のことを見られた。
自分の親(たち)は、
「精神的に未熟」だったのかもしれない。
そう思えたらしめたもの。
この新たな視点をもてることの価値は、大きいと思います。
親を客観的に見ることは、おそらくどの子どもにとっても容易ではありません。
しかし「未熟な親」に養育された子ども(たち)には、それがさらに困難になっています。
かれらにとって、おそらく自分の親は
ほんとうは自分を心から愛してくれている
ほんとうは自分への愛を表現したいと思っている
ほんとうはその能力も充分にある
そのような存在でしょう。
そうとしか見えない。
これが親を「客観視できない」状態なのだと思います。
その結果、怒りや落胆ばかりが鬱積してしまう。
実際の親と、自分が考える親とのあいだに、かなりの落差があるでしょうから…。
ほんとうは私を愛してくれているはず。
私の親だって、ほんとうは「普通」なのだし。
でも…なぜいつもこうなるのだろう?
親はなぜ「ほんとうはできるはずのこと」を、自分に対してしないのだろう?
それは自分が悪いからだー。
このような思考回路も、未熟な親に養育された子どもたちに典型的なものだといわれています。
しかし、あなたの親は「精神的に未熟」なのかもしれません。
「自分勝手で成長しない親」の可能性があります。
あなたの親は、あなたを愛していないかもしれません。
少なくとも、あなたが望むようには。
あなたに愛の表現をしたいと思っていないし、その能力もないかもしれません。
少なくとも、あなたが望むかたちでは。
それが事実かもしれない。
子どもが、精神的に未熟な親からなにかを望むとき、両者の関係はこの上なくしんどく重たいものになる。
…(中略)…
だからしっかり考えること。ほんとうに親になにかを望んでいるのは今の自分なのか、それとも、かなわなかった子どものころの望みの名残なのか、と。
9「あなたが手にしている『9つの自由』」
9 ”しみついたパターン”に戻らない自由
ACIMは、私たちが抱える「問題」すべての根源的な原因は「神からの分離」にあるといいます。
だから、親は関係ない。
親は本当の原因じゃない。
「分離」がほんとうの原因だ。
親との関係なんかに
かかずらっているべきじゃない。
ACIM的に、もっと重要なことがある。
…そうでしょうか?
ほんとうに?
ACIMがいう「根本原因」の「神からの分離」は、ほぼ間違いなく親との関係に投影されます。
親との関係だけではありません。
私たちが構築するあらゆる関係性に、投影されるのです。
ということはー
根本の原因である「神からの分離」と、親も含めて私たちが関係をもつすべての人たちは、無関係ではあり得ない。
この観点でいえば、自分の親を「赦す」(もちろんACIMが言う「赦し」ですが)のは、ACIMの実践上で決定的な重要事項のはずです。
とはいえこの「赦し」がしばしば非常に難しいものであるのは、私自身、自分の経験からよく理解できます。
自分の親を赦そうとする困難な実践を決断した人に、速やかに助けがあることを祈っています。
あるいは本書が、その一助になるかもしれません。