本の感想回。
ACIMの話題も、ちょこっと挟まっています。
現代日本の”知の巨人”と称される佐藤優氏と、ユニークな経歴の持ち主である中村うさぎ氏の対談の三冊。
各々、どれも面白い本でした!
📖
ところで、キリスト教には「原罪」という教義があります。
人間はその存在の根底から『罪』で穢れている
そういうご説。
「原罪」。人間の根本的な「悪」ってことですね。
で?それって何?
いったいなにがそんなに「悪い」のでしょうか?
…言うてなんですけど。アレのことなんですよ。
おまたのアレ。
人間の性欲。
ゑ
「原罪=セックス」とあからさまに強調する聖職者や司牧者は、いまでは少ないかもしれません。
「原罪」に関しては、「神さまを裏切ってしまった人間」という論調が増えた感じがしています。
あくまでも、いちキリスト教徒である私の個人的感想です
とはいえ、少なくともある程度の年齢以上のキリスト教徒(私自身も含む)にとって、「原罪=性」は”常識”として刷り込まれている…
そう言っても、言い過ぎではないと思うのですが。
📖
中村うさぎさんはこの「原罪」について、
原罪はセックスではなく、他人を意識する自意識
「聖書を語る」
そう述べています。
人間の始祖とされるアダムとイヴがエデンの園を追放されることになった原因は、性欲ではなく「自意識」の芽生えではないのだろうかーという意見。
(アダムとイブが楽園を追われたそもそもの原因が、「原罪」なのです。)
自意識。
他人と自分は違う存在だという前提から生じる”意識”です。
彼女のこの指摘は、鋭いと思いました。
正直、”おまたのアレの件”よりよっぽど説得力がある。
📖
もうひとりの対談者、博覧強記で知られる佐藤優氏は仏教への関心を述べたうえで
(自分は)キリスト教のことも仏教のことも読み違えている。
しかし、どう読み違えているのかを言語化できない。
「聖書を読む」
そう率直な心情を吐露しています。
(ちなみに佐藤氏自身は、敬虔なカルヴァン派のキリスト教徒だそうです。)
私も同感です。
きっと多くの人がー当の宗教家さえも含めた人たちが、同じように感じているのでは。
なにかが…なんというか…
どこかで誤解している。たぶん。
でも、どこがどう「誤解」なのかがはっきり表現できない。
ああ、歯がゆい。
📖
ACIMでも「罪」は大きなテーマです。
サクッと結論を言えば、
「罪」という概念じたい、
人間が作り出した空想、妄想
それがACIMの見解。
その意味では、性欲も自意識もーなんであってもそれは結局人間のファンタジー(幻想)にすぎません。
ACIMには、たしかに非常にラディカル(急進的)な面があります。
内容的に、私たちのこれまでの考え方とかなり異なる点も多いです。
もしもACIMの主張が
しょせんすべては人間の妄想。
なにをやっても罪ではない。
だから自分の好きに生きればいい。
(他者と対立しても、幻想だから問題ない)
このようなものなら、それは極端な意味での「ラディカル(過激)」です。
ACIMにはそうした「過激」さはありません。
一方でACIMは、「奇跡」が人間の性欲と混同される可能性について指摘しています。
ACIMが考える「奇跡」は、他者への愛の表現を不可欠な要素として含みます。
この「愛」が、しばしば「性欲」(あるいは「特別な愛」)と混同されてしまう。
この混同は罪ではありませんが、結果として、様々な混乱はもたらします。
📖
今回の3冊のなかで、私が最も心を打たれた中村うさぎさんの文を引用して終わりにしましょう。
彼女は2013年、難病を発症して脳死状態に陥り、生死の境をさまよいました。
(いまはずいぶん回復されている様子です。)
…(中略)あらゆる人間は平等に「死」というゴールを迎え、生前の自我も感情も経験もすべて黒板消しで消すように綺麗に消え失せて、完全なる「無」となるのだ。
我々は、そこで初めて救われる。
そう、そこで初めて気づくんだよ。
私は何者かになろうと必死で生きてきたけれど、本当になりたかったのは「何者でもない」存在だったんだ、と。
「死を語る」あとがき(中村うさぎ)
何者かになろうと必死で生きてきたけれど、本当になりたかったのは「何者でもない」存在だった。
何者でもない存在
それが、私たちすべてのほんとうの「故郷」。
帰るべきふるさと。
そのアウェアネス(自覚、気づき)は、求めることさえやめて静かになったとき訪れる…。
心に残る文章です。