最近、「オンライン坐禅会」に参加しています。

とってもいいですよ~おねがいキラキラ

 

日本に昔からある「坐禅」。

これも「瞑想」に分類されると思います。

 

いま、世界で注目されている「瞑想(メディテーション)」。

その効果については、いろいろ言われています。

心が落ち着く。不安が減る…

 

「瞑想(メディテーション)」は、こうした効果そのものが目的なのかもしれません。

 

一方で「坐禅」は、心を静かにすることに重きが置かれているように感じます。

 

いわゆる「瞑想がもたらす良い効果」もまったく同様でしょうが、それはたぶん副次的。

 

おしゃべりでうつろいやすく、「勝手に」思考を生み出し続けるようにみえる心。

 

それを静かにする。

それじたいが目的。

 

いまのところ、私にはそんなふうに思えます。

 

ダルマ

 

ところでACIMには、「聖なる瞬間」というテーマが登場します。

 

真顔

これ、瞑想によく似てる…

 

そう感じている方もいるのでは。

私も同感です。

 

「聖なる瞬間」は、聖霊による時間の使い方で経験される時間です。

自我による時間の使用方法とはまったく異なる観点からの、時間の使い道。

 

この「聖なる瞬間」のためには、やはり心が静かになっているのが大切だと思います。

静かな心のための訓練は、そのまま「聖なる瞬間」の実践にもつながるはず。

 

もっともACIMは、学習者に特定の瞑想法や精神修養は指示していません。

(とはいえ「ワークブック」は、瞑想の訓練的な面があると思います。)

 

そんななか、きっと自主的に、なんらかのかたちで心を静める実践・訓練を継続している方もいるだろうと想像しています。

 

ダルマ

 

今回はもうひとつ、FIP版(☆)ではないACIMに収録されている「瞑想」に関する興味深い一節を紹介しましょう。

(☆)邦題「奇跡講座」「奇跡のコース」など

 

あなたがたは、自分のなかに聖霊を探すという誤りを犯してきた。

だから瞑想の際に恐れが生じたのだ。

 

自我の観点を受け入れ、自我を導き手にして、自我にとってまったく未知の航路に乗り出してしまった。

これでは恐れが生じることが避けられない

 

You have made the mistake of looking for the Holy Spirit in yourselves, and  that is why your meditation have frightened you. By adopting the ego's viewpoint, you undertook an ego-alien journey with the ego as guide. This bound to produce fear.

 

Helen's Note

日本語訳は筆者

(太字は原文から)

 

FIP版ACIMテキスト5章Ⅲ4に、「聖霊を自分の内面のみに探そうとする誤り」を主眼に編集され収録されている個所です

 

 

あなたの「外側」を探しても意味はない

ACIMに登場する、印象的な表現です。

 

オーケー!グッ

それなら「自分のなか」を探究すればいいんだね?チュー笑い

 

しかしてその結末は…

 

瞑想にせよ何にせよ、私たちが自分のみのためになにかを行おうとするーつまりそう意図すると、最後は必ず恐れに行き着いてしまう。

 

自分だけのため。

自分ひとりの内面。

 

この個人的な視点が、「自我の観点」です。

この観点からの探究は、当然ながら「自我を導き手にする」ことになる。

 

しかもその探索が、ACIMの考える「聖霊」のようなものをめざしている場合ーそれは自我にとってまったく「未知」の領域です。

 

なんの経験もない、地図さえもたない相手に、異国の道案内を任せるようなもの。

 

ACIMはそう語ります。

 そ…そりゃ怖ぇ滝汗

 

なかなか衝撃的な説です。

 

ダルマ

 

ともあれ上の引用文を見ると、「自我を導き手に選択したことから恐れが生じた」と読めます。

それならば、自我ではなく聖霊を導き手にすれば、恐れを経験せずに済むはず。

 

どうやらそのとおりのようですよ。

ACIMによれば、こういうハナシですから。

 

 

「聖霊を導き手に選択すること」

「自分のためだけに意図しない」

これが文字通り、全くの「イコール」

 

 

凝視

それ…

結局、一緒なの…ね?

 

 

たとえば「時間」に関してなら、自我による時間の使い道ではなく、「聖なる瞬間」という聖霊の使い道がある。

 

そう聞くと、「時間を使う具体的な内容、方法」を考えたくなります。

 

時間を「どう」使うか。

つまり、「その時間で、なにをするか」。

要はそれがポイントってことでしょ?

 

いや…

どうやら、そういうハナシじゃないようで。

 

時間の使用目的(意図)が重要らしい。

 しかもそれが「どう使うか」ではなく目汗はてなマーク

 

自分だけのために、使うのか。

あなたのために捧げるのか。

 

それとも…双方のための、共有される目的があるとまず考える

 

この実践者の「意図(意志)」がキモ。

そういうことのようです。

 

ダルマ

 

こういうハナシって、心が静かじゃないとたぶん耳に入らない。

理解する以前に、文字通り、全然耳に入りません。

 

自分の「常識」-これまでに”学んで”きたことが「外野の声」になって、やかましくてしょうがない。

(ACIMがいう「自我の声」「過去の学び」ってやつですね。)

 

だからこそ、こうした「外野の声」を静めて心を静かにする訓練は大切。

…と、思っています。