私は誤った決断をしたに違いない。
平安ではないのだから。
私は自分で決断をしたのだが、
別の決断もできる。
私は別の決断をしたい。
平安でありたいのだから。
私がそう任せるなら、
聖霊は私の誤った決断の結果のすべてを取り消してくれる。
それならば、私が罪の意識をもついわれはない。
聖霊に委ねることを選択しよう。
神のための決断を、代わりに聖霊に下してもらおう。
テキスト5章Ⅶ6:7-11
日本語訳は筆者
言葉を補っています
(記事の最後に原文)
どうやら自分はどこかで「間違い」をしたらしい。
上に引用した祈りは、この自分の誤りと、その結果の取り消しを聖霊に任せると明言します。
ここで焦点になっているのは、自分自身が下す決断です。
決断を下すこと自体は自分がするもので、自分以外の存在にはできません。
上の祈りは、ACIMの大切なテーマがてんこ盛り。
しかし、
そしてもうひとつの大きなポイントは、決断の内容が不問な点。
なにについて、どのような判断を下すのか。
そうした「内容」は、素直に聖霊に任せる。
この時点では、それで充分なのです。
この時点であれこれ思い悩まないのは大切です。
そうかぁ…間違ってたんだ。
たしかにそうかも。
じゃ、「正しい」決断って
何だったのかな?
どう決断するのが、よかったのかしら。
これが「誤った決断」の王道です。典型パターン。
自分で間違いを探して、自分でそれを訂正しようと意気込んでしまう。
いったいなにが
間違いだったのだ…?
「間違い」は、投影から生じます。
そうなると、いくら自分で自分を見つめ直しても発見できません。
投影されたものは、自分にはない。
そう信じていますから。
(そう信じている自覚さえないのです)
ということで、ここであれこれ考えてもムダ。
脳ミソが疲れるだけです。
より賢明な存在(聖霊)が、自分に代わって「内容」までまるっと決めてくれる。
それは「神を選ぶ決断」などととも表現されます。(「奇跡講座」5章Ⅶ)
この聖霊の決断を受け入れるなら、神を選ぶ決断をー神の意志に一致する決断を共有することになる。
それは、決断者を神へと向かわせる決断なのです。
聖霊の決断を信頼するという「決断」。
それは、これまでと異なる(しかもかなり異なる)やり方です。
これまでは、何から何まで、すべて自分で決断してきました。
しかし今度は、
自分より賢明な存在が下した判断を受け入れる決断をすることだけが、
自分の決断
なのです。
脳にもしばしの休息…
☆上記引用文の原文☆
I must have decided wrongly, because I am not at peace. I made the decision myself, but I can also decide otherwise.
I want to decide otherwise, because I want to be at peace. I do not feel guilty, because the Holy Spirit will undo all the consequences of my wrong decision if I will let Him.
I choose to let Him, by allowing Him to decide for God for me.