感情のままに怒りをぶつけてしまうことも、ときにはあります。
だれかに悪意を抱いたり、わが身のふがいなさがゆるせなくなる。
 
…そんなときだって、あるものです。
 
実は、こうした「ネガティブな思い」は「罪」「罪悪感」に関係しています
 
この罪悪感は、できるだけすみやかに癒されるのが望ましい。
さもないと、私たちは「ミラクルワーカー(奇跡を行う実践者)」として充分に機能しないからです。
 
せっかく「奇跡」を学んでいるというのに…
それではもったいない赤ちゃん泣き
 
ということで今回は、罪悪感から離れて癒しへと向かうための祈りを紹介したいと思います。
 

私は誤った決断をしたに違いない。

平安ではないのだから。

私は自分で決断をしたのだが、

別の決断もできる。

私は別の決断をしたい。

平安でありたいのだから。

私がそう任せるなら、

聖霊は私の誤った決断の結果のすべてを取り消してくれる。

それならば、私が罪の意識をもついわれはない。

聖霊に委ねることを選択しよう。

神のための決断を、代わりに聖霊に下してもらおう。

 

テキスト5章Ⅶ6:7-11

日本語訳は筆者

言葉を補っています

(記事の最後に原文)

 

 

どうやら自分はどこかで「間違い」をしたらしい。

 

上に引用した祈りは、この自分の誤りと、その結果の取り消しを聖霊に任せると明言します。

 

ここで焦点になっているのは、自分自身が下す決断です。

決断を下すこと自体は自分がするもので、自分以外の存在にはできません。

 

上の祈りは、ACIMの大切なテーマがてんこ盛り。

しかし、

 
自分には、別の決断もできる。
今度はその「別の決断」をしたい。
 
ともかくこれがひとまずのキモ。
別の決断をみずから意志する点です。
 
この決断が「自分自身の平安」を左右する。
それが選択の理由なのも、見逃せません。
 

そしてもうひとつの大きなポイントは、決断の内容が不問な点。

 

なにについて、どのような判断を下すのか。

そうした「内容」は、素直に聖霊に任せる。

 

この時点では、それで充分なのです。

 

この時点であれこれ思い悩まないのは大切です。

 

 

そうかぁ…間違ってたんだ。

たしかにそうかも。

 

じゃ、「正しい」決断って

何だったのかな?

どう決断するのが、よかったのかしら。

うーんはてなマーク

 

 

これが「誤った決断」の王道です。典型パターン。

自分で間違いを探して、自分でそれを訂正しようと意気込んでしまう。

 

いったいなにが

間違いだったのだ…?

 

「間違い」は、投影から生じます。

そうなると、いくら自分で自分を見つめ直しても発見できません。

 

投影されたものは、自分にはない。

そう信じていますから。

(そう信じている自覚さえないのです)

 

ということで、ここであれこれ考えてもムダ。

脳ミソが疲れるだけです。

 

より賢明な存在聖霊が、自分に代わって「内容」までまるっと決めてくれる。

それは「神を選ぶ決断」などととも表現されます。(「奇跡講座」5章Ⅶ)

 

この聖霊の決断を受け入れるなら、神を選ぶ決断をー神の意志に一致する決断を共有することになる。

それは、決断者を神へと向かわせる決断なのです。

 

聖霊の決断を信頼するという「決断」。

それは、これまでと異なる(しかもかなり異なる)やり方です。

 

これまでは、何から何まで、すべて自分で決断してきました。

 

しかし今度は、

 

自分より賢明な存在が下した判断を受け入れる決断をすることだけが、

自分の決断

 

なのです。

 

ぐぅぐぅ脳みそ

脳にもしばしの休息…

 

 

心はひとつの存在
ACIMによれば、それが心の(同時に、私たちの)本質です。
 
そしてこの観点から下された決断だけが、私たちに平安をもたらしてくれます
 
このような決断を下す役割を担うのが、「聖霊」と呼ばれる存在です。
 
聖霊は「ひとつの存在である心からの観点(「(キリストの)ヴィジョン」と表現されることもあります)を保っており、この視点から離れることはありません。
 
一方現状の私たちは、この視点を見失っている状態なのです。
その視点を保っている存在にアドバイスを仰ぐのが得策でしょう。
 
🌷
 
ところで、上に”この時点では”聖霊に任せれば充分ーと書きました。
 
聖霊に委ねる決断を下せば、その決断の結果が生じます。
この「結果」の部分が、「奇跡」です。
 
ACIMで学ぶ奇跡は、座って見ているだけの「感動ドラマ」ではなく、私たち自身の実践(実際の行動)に直結しています。
 
多くの場合、奇跡のために導かれた行動をすることになるでしょう。
「なにかする」ことがあるとしたら、ここからなのだと思います。
 
 
 
 

☆上記引用文の原文☆

I must have decided wrongly, because I am not at peace. I made the decision myself, but I can also decide otherwise. 

I want to decide otherwise, because I want to be at peace. I do not feel guilty, because the Holy Spirit will undo all the consequences of my wrong decision if I will let Him. 

I choose to let Him, by allowing Him to decide for God for me.