「自我」。

ACIMを学ぶうえで、避けては通れない概念のひとつです。

 

今回は、この「自我」についての話題。

 

晴れ

 

ACIMが定義する「自我」は、少々独特です。

フロイトが人間の精神の構造として考えた「自我」と、まったく同じーとは言えない。

どちらかというと、「我執」なんていうときの「我」のほうが近いかもしれません。

 

この「自我」ですが、ACIMの「テキスト」を最初から読み進めていると、まるで実体のある個別の存在であるかのような印象を受けませんか…?

 

「悪魔の囁き」なんて言うでしょ。

耳元で囁いてくるアレ。

  ドクロ笑い岡田監督のA.R.E.とは違うでー

 

その、”アレ”みたいじゃないですか。

まるで

根絶しにしなければならない

諸悪の根源

 

しかし、それはACIMの本意ではないようで。

 

 

私はこれまで自我について、まるで自ら(の意志で)行動する(あなたとは)別個の存在であるかのように語ってきた。

 

自我を手軽に消し去ることはできない。

それをあなたに納得させるには、そうすることが必要だった。

そしてあなたは、自分が考えていることのいかに多くが自我の言うままになっているのかを認識しなければならない。

そのためにも、そうすることが必要だったのだ。

 

だがこのままにしておくのは得策ではない。

このままでは、あなたがこの世界にいる限り(あるいはあなたが、自分はこの世界にいると信じている限り)自分にとって(自我による)葛藤は必然だと(当然のことだと)考えてしまう。

 

自我は、自分自身に関するあなたの信念の一部にすぎない。

 

 

I have spoken of the ego as if it were a separate thing, acting on its own. This was necessary to persuade you that you cannot dismiss it lightly, and must realize how much of your thinking is ego-directed. We cannot safely let it go at that, however, or you will regard yourself as necessarily conflicted as long as you are here, or as long as you believe that that you are here. The ego is nothing more than a part of your belief about yourself.

 

「テキスト」4章Ⅵ1:3-6

日本語訳は筆者

(言葉を補っています)

 

 

引用が長くなりましたが、実は、これが今回私の言いたかったことなんです。

 

ってことで、もうここで終わりにしてもいいかな。

んじゃバイバイ

 

  こらこらこら!

  かってに終わるな!むかっ

 

くもり

 

「自我」が自分ではない存在ー悪意をもって囁きかけ、自分を操る実体だと信じてしまったら最後、われわれは「自我」から逃れられません。

そのとき「自我」は、私たちにとって現実になってしまいます。

 

「現実(リアリティ)」化したものを「消し去る」ことはできない。

たとえそれが空想だとしても、当人が現実だと考えていれば不可能です。

 

現段階でのわれわれは、ほぼこの状態と言っていいでしょう。

 

自分自身に関する「自己像(イメージ)」が、「自我」としてアイデンティティ(これが”私自身”という自己認識)になっているのです。

 

そんな「自分自身」であるはずの「自我」が、まるで他人のように「個別の実体として自分を操る」…

 

真顔はてなマーク

なんだか変。

矛盾してない?

 

おーっ!ピリピリ

どうでもいいからぁぁぁ!

「自我」なんてヤダ

早くなんとかしてー

 

 

そんな「自我=悪いヤツ」的イメージは、あっさり投影されます。

(ACIMの「投影」は、おもに、自分にとって不快なものを他人に転嫁する心理的な作用を意味します。)

 

すると、「他人は自分に”悪さをする”存在」だと考えるようになる。

 

うーんはてなマーク

「悪さする」とまでは

思ってないなぁ

 

時々ちょっと「やなやつ」

って思うくらい…?

 

 

 

この「時々ちょっと『やなやつ』だと思う」。

これぞまさに、「自我=悪いヤツ」が投影された結果。

 

あ、ちなみにこれはただそういうことだよ…ってだけのハナシで。

 

私たちは内側にあるもの(自分の思考、想念)を外に知覚します。

それ以上でもそれ以下でもなく、そういうものなんです。

 

なので、

 

  ガーン

「投影しちゃったよ…どうしよ…」

 

と、罪の意識で自罰的にになる必要はありません。

 

とはいえ、まずは上のような「ちょっとしたこと」にも意識的になってみる。

それじたいは、とても大切だと思います。

 

くもり

 

自分以外のものが、悪さをしてくる。

誰かのせいで、イヤな思いをさせられる。

 

こうした思考回路を放置している状態は、引用文で

 

 

❝自分が考えていることのいかに多くが自我の言うままになっているのか❞

 

 

と表現されています。

 

なにせ自我の思考回路のモットーは、

 

 

なんでもぜんぶ、他のせい♪

 

 

 

自分以外のなにかのせいで、イヤな思いをした

下矢印上矢印

私は自分以外の存在に影響され、左右される存在だ

 

ずっとこのループを回りっぱなし。

 

ついつい回してしまうのだー

 

 

ここから抜け出すには、ひとまず自分がどのような状態なのかを自覚しなければなりません。

 

❝自分が考えていることのいかに多くが

自我の言うままになっているのか❞

 

まあ、なんといってもこれが現状です。

 

これを認識するためには、ひとまず「自我」がまるで実体をもつ存在であるかのような「擬人化」が役に立つでしょう。

 

さもなければ自分自身の状況なんて、あらためて「見る」気さえ芽生えません。

 

とはいえこの擬人化は、現状を把握するための一時的な「方便」です。

 

次にはぜひ、この言葉を思い出しましょう。

 

 

 自我は、自分自身に関するあなたの信念の一部にすぎない

 

 

どこまでいっても、結局、「自我」は私たち自身の信念なのです。

 

 

いくら立派でも、砂の城