それ「宗教」なんじゃないの? | おこめん家(ち) ~ままよてんぽのかわ~

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「てんぽのかわ」は風に吹かれる草のことらしいです
飛ばされるしかないのね…草だし

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縁側でお茶でもいかがでしょう?

ちょっと前、見知らぬ人が訪ねてきました。

 

インターホンから、女性のこんな声が。

「2丁目の●●と申します。奥さまならご存じかと思います」

 

ご近所の方のようです。

意識が戻らないまま施設で過ごしている母のご友人…?

しかし母は気難しい人で、近所づきあいをしているなんて話は聞いたことがありませんが…

 

ともかく私は玄関を開けました。

 

するとそこには、母よりやや若い感じの優しそうなご婦人がふたり立っています。

ひとりの方は、透明なクリアファイルを手にもっていました。

そのファイルには、薄めの小さな冊子がたくさん挟まれていまして…

 

その表紙の写真が、これそのものではないんですが、だいたいこんな雰囲気。

 

 

ああ…って感じですよね。

 

そのご婦人、

「あなた、お嬢さまかしら?うちの●子と小学校で同じクラスだったでしょう?」

 

●子ちゃん…?

ああ、時々放課後一緒に遊んだことあるある!

ニコニコニコニコ

 

そんな話をひとしきりした後で、●子ちゃんのお母さまがこう切り出します。

 

「あのね。いまご近所のみなさまに、聖書を読む会へのお誘いをしているところなのよ」

 

…。

ええとですね。

 

実はわたくし、キリスト教徒でございまして。

聖書のほうは、間に合ってますんで。

 

事実です。

事実なんですが、なんか変だよなぁ。

「聖書は間に合ってます」って…汗うさぎ

 

ともかくこういうお誘いをいただいたときには、正直にそう言うようにしているんです。

おおかたの方々はそれでお帰りになりますし。

 

世間では、統一教会問題の騒動が続いているこのタイミング。

そんななかでも臆せず堂々と「聖書を読む会にいらしてください」と”布教活動”をなさるのは、なかなか潔い。

●子ちゃんのお母さまたちは、信仰心じたいは強くていらっしゃるのでしょう。

 

ところでACIM学習者のみなさんは、たとえばご家族などから、

「え?それ、宗教なんじゃないの?」

「気をつけなさいよ。ほら…そういうのって、いろいろあるから」

なーんて、言われてませんか?

 

あるいはそんな”アドバイス”を予期して、お友達やご家族にはACIMのことははじめっからナイショにしているとか。

 

 

確かにわれわれ日本人は、概して「宗教」に否定的な印象をもっている場合が多いですよね。

しかし私としては、それって宗教そのものに対するというより、むしろ「宗教組織」に対する不信感じゃないかな…と思うわけです。

 

宗教そのものと、宗教的な活動を行う宗教組織。

このふたつがなんだかごっちゃになっていて、「宗教」と聞くと反射的に眉をひそめちゃう。

 

ちなみに宗教と宗教組織だけではなく、実は私たちの心のなかにはこのテの混同が意外なほどたくさんあるんだと思います。

(そうした様々な混同が、ACIMのいう「夢」や「幻想」の基盤にがっつり組み込まれているわけね。)

 

なにかそれらしい話を耳にすると、

「えええ、それって宗教じゃないの?えー?」と反射的に眉間にしわがー

 

でもこうした反応、ある意味当然かなと思うんですよ。

 

人間には、「救済」(と呼ばれている漠然とした”なにか”)への強い希求があるものです。

これはおそらく、誰の心にも宿っている。

あらゆる人に共通する普遍的なものだと思います。

(実はこれこそが「つながり合う」鍵!)

 

そんな「救済」への手段が、本来の「宗教」の目的だったのでしょう。

 

しかし現代では、宗教以外の様々な「救済への手段」が認識されるようになっていますよね。

(それらのすべてが、実際に救済のための手段になっているかどうかはまた別です。)

 

むしろそうした手段のほうが、当然になりつつあるのかもしれません。

 

それはおそらく、現代人である私たちにとって「宗教」(あるいは「宗教組織」)がもはや救済のための手段ではなくなったから。

もしくはそうだと思えなくなったから。

 

「宗教」(あるいは「宗教組織」)に、限界を認識している人が多いのだと思います。

 

「宗教組織」、「宗教団体」。

これがらみで、ほんと過去にはいろいろありました。

今もあれこれ、ありますしね…残念ながら。

 

救いは「宗教(組織)」にあるんじゃない。

もっと大切な「なにか」を見つけ出すことにあるはずだ。

昨今の様子を見ながら、そんなふうに考えている人も多いのではないでしょうか。

 

それがなにかはわからないけど、自分に「救済」をもたらす”なにか”がきっと存在しているはず。

だとしたら、それが見つかれば「救われる」のです。

宗教組織に加わって”宗教活動”をするよりも、そうした探究に励むほうがよっぽどいい。

 

ーそんなふうに見えるのは、無理もないかも。

 

 

さてACIMはというと、ここで私が言っているような「特定の組織としての宗教」ではありません。

 

しかしながらACIMの目的は、上に述べたような「救済」の成就にあります。

そうした意味では、ACIMはまさに「宗教」といえるのかもしれません。

 

万人の心にある「救い」への憧れ、希求を満たすもの。

それはまさに、そのものすばり「救済」です。

 

そしてそれが、ACIMの目的なのです。

 

学習者の多くはきっと、この事実を、何というか―「本能的に」察知して、ACIMに魅了されるのでしょう。

 

ともかくそうした観点からいうと、ACIMはきわめて「宗教的」です。

てか、まったくの「宗教」。

人間の救済を目指し、その「道具」であることが本来の宗教の目的ならーACIMはその目的をきちんと果たせるツールですから。

 

ACIMのボキャブラリーを拝借すれば、「贖罪によって罪を取り消し、罪悪感から逃れることが救済への道」です。

そしてACIMはたしかに、この目的に完全に合致していると思います。

 

さて。

ご家族やご友人からの

「それ、宗教なんじゃないの?気をつけなよ〜」

といった”ありがたい忠告”にマジレスしようとすると、上記のような小難しいハナシになりかねません。

というか、おそらくそうなる。

 

なんとかシンプルに説明しようとして、こんなふうに言おうと思ってもー

ACIMはね、一見宗教みたいだけど、

実は宗教じゃなくてね。

だから心配ないんだよ。

 

…おっと。

それじゃ話が逆だ。

 

というのも宗教が「救済」を目的にするものなら、ACIMはまぎれもなく「宗教」なのですから。

 

 

いやぁ、ACIMってね、

一見宗教じゃないみたいだけど。

実はれっきとした宗教なのよ。

 

でも心配ないよ。

 

うあああ、よけい怪しい雰囲気が醸し出されているっっ!!!

ガーンガーンガーン

 

うーん。

ウソ偽りを言うわけにもいかんし。

かといって、いろいろややこしいことを言うのもなんだしな。

 

怪訝そうな顔をしてる家族や友達には、ここはおおっぴらにせんとくか…。

 

それはそれで、実用的な対応のような気もしてきますよね。てへぺろ

 

 

しかしACIMにせよなんにせよ、「学び」というものはひとたび学んでしまえば学習者の心に残るもの。

 

学習者が学ぶ内容を信頼しており、価値があると思っている。

(まあ、だからわざわざ学ぶ気になるわけですが。)

 

さらには実践・実行を伴い、具体的に身をもってその内容を体験している。

そのようなとき、学んだものはおのずと学習者の行動の基盤になります。

私たちの行動は、私たち自身の信念から生じるからです。

 

そのようにして学んている学習者は、もはやそれを”ナイショ”にはできません。

ACIMの思考体系に従った行動を、自然にしてしまうからです。

 

べつに

「みなさま、ごらんください。こちらがA Course In Miraclesでございま~す」

なんて札がぶら下がっているわけではありませんが、その思考体系は学習者の行動になって表現され続ける

 

ACIMを学ぶとき、学習者の我々は、実はこのような状態に導かれるための訓練をしているのだと思います。

「アタマで勉強するだけじゃダメ。

実行、実践が大事!」

 

よくそんなふうに言われますよね。

まさにそのとおりだと思います。

 

そしてその”実行、実践”の基盤にあるのが、学ばれた思考体系なのです。

 

この点は、強調しておいて損はないかと。

 

そしてこの「学び」は、私たち自身が自分に教えたものではありません。

つまり、これまでの私たちの思考回路に沿った体系ではない

(それはACIMでは「自我による学び」と呼ばれます。)

 

ACIMの学習者の場合、基盤はあくまでA Course In Miracles という書物から学んだ思考体系であるはずです。

 

他の霊的な修養の道を歩む方であれば、その道において与えられている思考体系から学んだものーということになるでしょう。

 

つまり、そうした思考体系は、私たちのこれまでの思考回路とは全く異なるのです。

 

 

ところで2丁目の●子ちゃんのお母さまたちですが、その後礼儀正しくご挨拶され、お帰りになりました。

でも結局クリアファイルに挟まれていたパンフレットは、いただかずじまい。

なので、いったいどんな「宗教」へのお誘いだったのかは謎のままなのであります。…