救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」というこことだけである。
奇跡講座「テキスト編」
第二十七章「夢を癒やす」
Ⅷ「夢の主人公」10:1
今あなたが学ぶ必要のあることは、あなた方は共に無罪であるか、共に有罪であるかのどちらかだということだけである。
…
あなたがまだこれから学ぶ必要のある秘密は、これだけである。
同上13:6/8
今回と次回は、”ネタバレ回”かもしれません。
なにがどうネタバレかって?
(止まらなくていいです)
「A Course In Miracles」ってなんか話題だったよね。
でも、日本語の本にはいろんなタイトルがあるでしょ?
本屋さんの棚に何冊も並んでない?
いったいどれが”ほんもの”なん??
(全部「本物」です。日本語版では翻訳者と出版社が異なる複数のバージョンが流通していますが、原書はすべて同じ。そういう意味で、全部本物です。)
そのうえ、ものごっつ分厚いかったよ。
一冊5000円くらいしてたし。
…なんだか、ちょっとねぇ。
と思っているアナタ!
同じようなことをおっしゃるお友達に、ドヤ顔でこう言ってみてください。
あ、「奇跡講座」とか「奇跡のコース」とかいうアレね。
知ってるよ。
『あなたは自分で自分に行って』て、
『ともに無罪かともに有罪かのどちらか』しかない
ってやつだよね。
うわあ、この人すごぉぉい!!
と思ってもらえるはず…かどうかは、わかりません。
(たぶん、思ってもらえない)
しかし、ACIMの根本的なメッセージはこれに尽きます。
あんなに分厚い書籍が数冊組になっていても、結局これに尽きる。
…ネタバレ、してるよね?
冒頭の引用文では、これをもったいぶって「秘密」と表現しているくらいですから。
あなたは自分で自分にこれを行っている
あなた方は共に無罪であるか、
これは言葉、表現としては二種類の内容のようにみえますが、本質的には同じです。
これが唯一の「救いの秘密」。
私たちの救済の鍵。
これを学べば、私たちは救いにあずかることができる。
鍵あってよかった。やっと出られたぞ。
各々を、もう少し詳しくみていきましょう。
まず「あなたは自分で自分にこれを行っている」。
これは、以前も取り上げた「知覚の法則」が前提になっている表現です。
人はその心に思うごとく知覚する。
奇跡講座「テキスト編」
二十一章「理性と知覚」
序1:6
自分自身の思考が、私たちのあらゆる経験の真の原因だ…って話でしたね。
この”自分が原因である状態”を、「あなたは自分で自分にこれを行っている」と表現しているわけです。
しかし私たちは、この「自分が原因である」状態をあまり認識していません。
なににせよ、自分ではないなにかが原因だ…と思っているのがふつうです。
(こんなときは、「こいつ、ホントわかってないよなぁ」なんて思うものです。「わが身」よりも「他人」のことで目につくほうが多いかも。)
それならば、この「自分以外の”なにか”に原因がある」という私たち自身の信念を訂正するのが鍵になる…ということになる。
(前にもお話ししたかもしれませんが、これは「私の考え方のせいで、こんな出来事が起きてしまった」という意味ではありません。ものごとを「引き寄せる」話じゃないんです。ポイントは起きている「現象」ではなく、それを私たちがどう経験するかーどう解釈するか。)
やっぱり「鍵」がないとね…
次に「共に無罪であるか、共に有罪であるかのどちらかだ」ですがー
事実上、これが我々ACIMの学習者にとって学びの焦点になると言ってもいい。
ぶっちゃけ、「これを学ぶことがほぼACIMの学びの”神髄”だ」と言ってもいいくらいです。
もっとはっきりした物言いを許していただくなら、これを学ぶのは決して容易なことではありません。
だからこそ”神髄”になるわけで。
私たちはしばしばシンプルな「真実」に背を向けて、
わざわざ目の前にランプを掲げていたりするわけです
ともかくこれは、ACIMにおいて私たちの苦しみの原因とされる罪悪感に関わる概念です。
といっても罪悪感を説明するためのものではありません。
その真逆に、互いに分かちがたくセットになっている罪と罪悪感の対極にある全一性についての概念です。
罪と罪悪感の対極。
つまりこれは、罪と罪悪感を取り消すための原理です。
この「取り消し」を実現可能にするのが、全一性なのです。
知覚の法則に従い、私たちが体験している世界とは、自分が選択した結果だーということになります。
「あなたは自分で自分にこれを行っている」というわけです。
(くどいようですが、再度。これは出来事が「引き寄せられた」、「自分の選択でこうなった」という話ではありません。)
そしてこの「自分」。
コイツが肝心です!
この「自分」が、私たちが普段「自分」だと考えている単体の個人ではなく、「一なる子」(*)といわれる全一性であるとすれば…
「自分の体験」は「全一性、全体(一なる子)の体験」ということになります。
私たちは、個別の単体である人物像が「自分」だという非常に強固な信念に囚われています。
(ACIMによれば、この信念に一役も二役も買っているのが「体」。)
そして、そんな「自分」の下す選択は、その個人的な世界にしか及ばないと考えているのですが…
私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。
奇跡講座「受講生のためのワークブック」
レッスン19
私たちが「自分」を個別の個人と考えている限り、「悪いのは自分ではない」「自分のせいじゃない」といった型(パターン)の思考回路から離れられません。
「私の苦しみの原因は、私ではないところにある」というような、思考回路ですね。
私のせいじゃないし。
この一見単純に見える物言いは、実はきわめて深い混乱と誤りを表現しています。
それはつまりー
という信念の表明なのですから。
ACIMによれば、この信念(「分離」)こそ真理(「全一性」)を否定するもので、私たちのあらゆる誤謬の源泉なのです。
(*)
「一なる子」の原語は、the Sonshipです。直訳すれば、「子であること、子である状態」。率直に言って、こんな日本語にされたらわけがわかりません。
このACIM特有のthe Sonshipという言葉は、私たち人間のすべて、心が本質であるものすべては等しく「神の子」であるーという概念を表象しています。
(ちなみに、これは、いわゆる伝統的なキリスト教の教義ではありません。)
「奇跡講座」版では、この言葉を、学習者が直観的に理解できる「一なる子」という日本語に訳しています。名訳だと思います。
ACIMの著者も、「それそれ!ワシの言いたかったの、そういうコト~」(なぜ岡山弁…)なんて言っているのではないでしょうか。