ふと思うこと、ありませんか。
あれえぇ…ACIMってそもそもなんだっけ?
膨大な物量にまみれているうちに、気がついたらなにをやってるのかわかんなくなってきたぞ
…このコースは恐れからの脱出を目的としていると繰り返し述べていることを、思い出さなければならない。
奇跡講座「テキスト編」
第九章「贖罪と受容」
Ⅱ「祈りに対する答え」1:4
おおお、そうか。そうだった。
「恐れからの脱出」ね。
こういう言葉を聞くと、私なんかまだまだ心はオトメですから
「”ステキな王子様”が颯爽と現れて、自分を脱出口から外へ連れ出してくれるのかしら」と思ったりします。
あ…えっと、いろいろ頼りになりそうっすね。
残念ながら?そのようなことにはたぶんならない…。
あたりまえじゃ
ACIMがいう「恐れからの脱出」は、具体的にはこのようなものです。
奇跡は、恐れの原因を、恐れを作り出したあなたのもとに返還する。
奇跡講座「テキスト編」
第二十八章「恐れの取り消し」
Ⅱ「結果と原因の逆転」11:1
恐れの「作者」は、実は自分自身。
私たちが、それを受け入れて納得する。
それが「恐れからの脱出」の第一歩。
なににせよ確実に”それ”から「逃れ」ようというのなら、逃れようとする本人が”それ”の作者でなければならないでしょう。
そうでなければ、確実に逃れることにはなりません。
自分で作ったものを、自分の意志で放棄する。
それしかない。
そうでなければ、”それ”は何度でも繰り返す可能性があります。
自分が原因ではないなら、手の出しようがない。
作者自身が自らの「作品」である恐れから離れるのなら、当然ですが、その意志があるはずです。
自分の「作品」を放棄することに同意しているはず。
その同意がなければ、たとえ王子様やスーパーヒーローが現れてくれたとしても無駄です。
作者は、自分の「作品」である恐れの牢獄に自ら戻ってくるでしょう。
(「自分の作品」って、愛着満載の「自分で建てた理想ののわが家」みたいなもんですかね。)
まったく困ったことですが、もちろん解決の鍵はあります。
それが、私たち自身の心がもつ力。
その力が如実に体験されるのが、この法則でしょうー
私が見ているものについての責任は、私自身にある。
私が経験する感情を選択するのは私自身であり、私が達成したいゴールを決めるのも私自身である。
そして私の身に起こるかに見えるすべては、私が求めて、求めた通りに受け取るものである。
奇跡講座「テキスト編」
第二十一章「理性と知覚」
Ⅱ「視覚に対する責任」2:3-5
これは私たちの知覚を司る法則といわれるのですが、ACIM学習者がハラオチするのに難儀する概念のひとつではないかと思います。
まずは
「責任はあなたにある」
という表現が
「過失(=罪)はあなたにある」
と同じに聞こえて、いや~な感じ。
これは「過失」と「罪」が私たちの心のなかで相当激しく混同しているせいですが、この件についてはまた機会を改めるということで。
ともかく
「私たちの知覚や体験の責任が私たち自身にある」
とは、単純に
「私たちの知覚や体験は、自分の願望と決断の結果だ」
という意味です。
罪や罪悪感はまったく無関係なので、ご安心を。
このポイントは、原因の所在地が「私たち自身」だという点です。
自分自身の願望と、それに基づく決断が、ともかく最初のスタート。
すべて自分が出発点、だって話。
このようなことを聞くと、これまた
「私は”こんなこと”が起きるのを望んでいたってこと?まさか!」
などといった思いがむくむくと湧いてくるかもしれません。
つまり
「私は”こんなこと”なんか望んでいない!!」
っていう抗議です。
そうして、心のもつ力そのものより、
「自分はいったい、なにを望んでいたんだ??」
「自分は本当に”このような出来事”を望んでいたのか?」
といった”出来事のなかみ”に徐々に気を取られてしまう。
「出来事そのもの」と「出来事によって体験する感情、出来事にたいする解釈」がごっちゃになっているんですよね。
私たちのなかにはびこるこの混同も、なかなか激しいものです。
この混同が行き着くのは
「自分のもつ願望の力、心の力によって、人生に起こる出来事をコントロールする」
という考えです。
これについても、また機会があれば考えることにしましょう。
今回の焦点はーというか、ACIMの焦点は「自分の人生に起こる出来事を思いのままに操る」ことではありませんから。
ともかく、私たちが恐れから脱出するためには、「心の力」についての理解がぜひにも必要です。
自分が恐れの作者であるという理解があって初めて、私たちは作者として自分の意志、意欲でその恐れに対処できるようになるからです。
「私がこれを行った。そして、私が取り消したいのはこれである」
奇跡講座「テキスト編」
第二十七章「夢を癒やす」
Ⅷ「夢の主人公」11:6
自分が恐れの作者だったという自覚をもって正々堂々とこの宣言ができるとき、私たちは文字通り恐れを「取り消し」、それ以外の結果をもたらす選択をすることが可能になります。
なにせ、当の作者自身である自分が、「これを取り消したい」。
「これではない結果を望む」わけですから。
この願望と、それに基づく決断の力は甚大です。
ここには選択者の明確な意志がある。
選択者が、「心の力」を充分理解しているのです。(*)
決断の結果、知覚の法則によって、選択者は自分が望むものを見ることになります。
そこで知覚されるものは、たまたま、偶発的に「見えた」のではありません。
自分自身の願望、決断の結果として知覚されたものです。
「見えるのが当然」なのです。
このときそれまで自分がリアリティだと信じていた「恐れ」のかわりに、自分が「ほんとうに見たいもの」が知覚されます。
知覚の法則として、心の力が素直にはたらいただけのことなんですけどね。
こうした体験は、慣れ親しんだ因果関係ではないところから起きたように見えることがあります。
なんというか、「不思議」な感じがするかもしれません。
それを「奇跡」と呼びたくなるのも、もっともなことだと思います。
これ以降、ミラクルワーカーは、確実に恐れから解放されはじめることでしょう。
もう、自作の恐れの牢獄に戻る理由がないのですから。
奇跡を行う者は、奇跡が起こるための必要条件である真の因果律に、純粋な敬意を抱かなければならない。
奇跡講座「テキスト編」
第二章「分離と贖罪」
Ⅶ「原因と結果」2:4
(*)この心の力の自覚のためには、ある程度の赦しの実践が不可欠だと思います。
そうでないと「他人の言動が自分に影響しているのではない」「他人が自分の経験の原因ではない」ということが、実感をもって認識できないのです。