…と書くと、どんなストイックな生活なのだろうと自分でも思うけれど、基本的には眠る・動く・少しずつ食べる、のくり返しで、とりたてて特別なことはしない。
ただ、本や新聞を読むこと、ペンで字を書く日記を欠かさないこと、も毎日の日課になっている。
そんななかで、悩ましいのがSNSの存在で、たまに毒だな、と感じながら、接しかた、バランスを考えている(正確には、考え続けている)。
姉や従姉妹からもたらされる、「これを読んでみて」、というメールは、特に注意が必要だと、昨日実感したので、ブログに文章で残そうと思った。
「これを読んでみて」「こんな情報があるよ」「知ってる?(あるいは知ってた?)」。
こういったメールにつきものなのが、出どころ不明の一般人のブログや、たまに問題になるフェイクニュースだ。
わたしは家族も友だちも少ないため、対人関係が深く、そのひとりひとりと向き合うとき、どこかで「いつか別れがくる人たちだから、真剣にぶつかろう」と思っているふしがある。
そういう、いわば重い人間なので、自分が経験したり、思ったことも、できるだけ吟味して話すようにしている。
自分がどんなに気をつかったとしても、人を傷つけてしまうことはゼロにはできない。離れていく人もたくさんいたし、いままさに離れつつある人もいるし、とにかくネイキッドでいると、大変なことはたくさん起こる。
くだんの「これを読んでみて」に戻る。
これは、早い話が「自分の経験したことではないけれど、あなたにもしかして必要な情報だと思う(あるいは必要な気がする)」、という自己の経験に基づかない、他人の経験の引用と、信用性のない情報をいきなり他人に勧めて反応を見たり、丸投げでおしつける、ある意味ありがた迷惑な行為だ。
たまにわたしは、それを被ってしまう。
信用しなければいい。
スルーすればいい。
読まなければいい。
あとでそう気づいたときには、そんな器用な自分ではないことが分かるだけで、すでに傷ついてしまったあと、であることがほとんどだ。
「もし自分だったら」という想像ができれば、あるいは本当に自己経験に基づく話なら、人との会話はディスカッションで、意見や良案が出てくることもある。
でも、未経験だが情報だけは転がっていて、それを検証もせずに拾って渡す、状態だと、そうされたほうはかなりの確率で、ショックを受けることがあると思う。
そのショックを例えると、
必死に耕して、栄養を与えて、しっかりしはじめた土(心)に、
ひとつひとつ、丁寧に球根や苗、種たち(素敵な感情)を植え、
水をやり、あらゆる災害、雑草や虫たち(すべて自分の負の部分・感情)と戦い、
やっとのことで花が咲きはじめる(心が豊かになる、平穏に過ごせる)。
ショックとは、
こうして苦労して整えた花畑(心や自意識、情緒の安定)に、どこからかキャタピラで進行するブルドーザー(無意識の悪意)がやってきて、すべてを一瞬で踏みにじってゆくことだ。
ブルドーザーはひとことで言えば暴力的な存在で、農夫(わたし)は、ほとんどなにもできない。
踏みにじった本人は気づいていないし、どちらかといえば良いことをした、くらいに思っているようなので、もうどうしようもない。
わたしにできることは、なくなってしまった花畑を、また同じようにいちから、作り直すことだけだ。
心は何度も折れる。
すさむ。
疲れる。
破壊した本人に反省してほしいと願う。でもこれはない。願ったところでどうしようもないので、水にそっと流す。
どれも一連で、自分でできることをやり直すしかない。
咲いた花が勝手に散ったのとはわけが違う。大切にしていたものが奪われるのは一瞬だからだ。
仕方ないことかもしれないし、涙が無駄かもしれないけれど、ある意味それを肥料にして、また畑の再構築に挑むしかないのだ。
強くなる。
これをくり返していれば、大切なことに目を向ける癖もつくし、いやでも打たれ強くなる。人に嫌なことをしない、気づきにもつながる。
種や球根を植え続けるしかない。
不毛の土地にはしない。
強くなる過程が不本意なものであろうと、畑に花が咲けば、きっとそれこそが素晴らしい結果になると信じるしかない。
いまはただ無心に、し続けるしかないことが、たくさんあるのだ。