前の投稿からかなりの日にちが経ってしまいました・・・
母が亡くなってからすでに1年が経ったのですが、まだまだ何かを書こうと言う気には
なれなくて。
でもとりあえずはメモ書きで残しておこうと思います。
3月に日本から戻ってからはほぼ毎日、母とはアレクサで喋っていたのですが。
2021年、7月10日(土曜日)
アレクサの音がしたので、あっ!おかーさーん、と言ったら聞こえてきたのは母のケアマネさんの声。
そして画面に映し出されたのは浮腫んで埴輪のような顔になっている母の姿でした。
ほどなく、担当の医師が駆けつけてきて下さり(もう夜なのにすみません)
とりあえずは入院して色々検査して、そして薬の調整、リハビリしてまたここに戻って来ましょう、と言うことになり
その後救急車のみなさんが来て、私と少し喋った後に「じゃ、これは切らせてもらいますね」とアレクサを切断されました。
この状況を、例えばあとからケアマネさんから聞くのと、現場に一緒に居て全部把握出来た、とでは随分な違いなので、アレクサにはほんと感謝。
(Facetimeでも同じ事が出来ますが、高齢者に優しいのは断然アレクサです)
そしてその後、私は少しでも早めに日本に行かなくては、と思ったのですが・・・
その時持っていたチケットは8月9日ボストン発(10日成田着)のもので。
ちょうど東京のオリンピック
変更しようにも、政府が席を押さえていて、例えばボストンからはDubaiやら他のヨーロッパの都市を回って東京に着く、みたいな便しかありません。
かつ、値段が150万円とか300万円!!とか言うあり得ない状態になっていました。
72時間前の陰性証明も取れるかどうかわからないし、さて、どうするべきか・・・と悶々と
していたらば
一週間後の7月17日(土)
朝起きると、母の病院からの着信が2件
すぐにかけ直すと、昨日母の動きがとても悪かったので緊急でMRIを撮ったところ、
脳梗塞が広範囲に広がってしまっています、と言われてしまいました。
母は以前から脳梗塞があり、いつ大きなのがくるか、二年後なのか、明日なのか
それはわかりません
と言われては居たのですが。。いよいよそれが近くなってきてしまった、と言うことらしい。
延命処置をどうするか、ということで私の所に連絡がきたと言う事です。
それについてはすでに母とも話していたので「何もしなくて良いです、母の体がラクなように
お願いします」とお返事出来ましたが、その後に
母の遺体は誰が引き取りに来るのか、と聞かれた時はなんとも返事に詰まってしまいました。
東京に居るのは、自身も車椅子生活で10年前に脳腫瘍の手術をした妹しか居ませんし
田舎の親戚に頼むと言っても、コロナの真っ最中だったので、なかなかお願いもしづらい状態・・
(東京に行く=コロナになっちゃう、みたいな雰囲気だったので)
とりあえずは、ケアマネさんに相談してみます、と言ってその場は電話を切りました。
そして「本当はとても混んでいるので予約が取れない」というタブレット面会の予約を
ケアマネさんが取ってくださり
7月24日、救急車で運ばれて以来初めて母の顔が見られました。
見られたのは良いのですが・・・
画面から「いつ来るの?」と母に聞かれるんじゃないかと思っていた私は大間違いで。
開いているのは片目のみ
表情が全くない顔つき
反応がない
写っているのは私の知らない母でした。
その後先生とお話する機会があったので、前回ちょっと保留になってしまっていた
「血圧が突然下がった場合に、薬を投入して血圧を上げる事が出来ますが、それは
心臓に負担がかかるものです。どうしますか?」という件に関しても
薬は投入しなくて良いです、血圧あげなくて良いです、と回答。
お母さん、私のことは待たなくて良いからね、と心の中で母に話しかけました。
その後JALに連絡して、何とか早く出発出来るようにお願いしなくては!!
お葬式を出す人が私しか居ません、と訴えました。
JALとしても、どうせ飛行機はガラガラなのに、私に席を1つくれたって何ら差はないはず、
と言いたくなりますが、政府が席をコントロールしているのでどうにもなりません。
私が生まれたのは東京オリンピックの年=1964年
今では「オリンピック」と言う言葉を聞くだけで何だか暗くなりそうです。。。
何日か後に、JALから「お席のご用意ができました」と電話が来た時は本当に嬉しかった
そして私は8月2日にボストンを発ち、翌日無事に日本に入国出来ました。