今日は、どんげde SHOW♪-i.jpg
龍馬の幼なじみとして龍馬伝にも登場する、岡田以蔵の話を少し紹介します。

1838年土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれました。そこには以蔵の他、6件の家が並んでいたので、「七軒町」と呼ばれていました。これにちなんで、土佐勤王党の密書や文章の中に「七以」と出てきますが、これは以蔵のことを指す暗号だったようです。

以蔵の父は郷士という身分をお金で買いました。当時の土佐では身分による差別が激しく、多くの志士は郷士を目指すのです。郷士の身分をお金で買うことはそれほど珍しいことではありませんでした。


以蔵は、幼いころからかなりの剣の腕を持っていたといいます。小説や文献によっては、武市半平太がその腕を見込んで自分のところへ迎え入れたという話もあるほど。
その後、剣の修行を始めた以蔵は、武市半平太に連れられ江戸へ行きます。

江戸では、いくつもの剣の流派がありました。なかでも、神道無念流、鏡新明智流、龍馬が習得した北辰一刀流は幕末を代表する三大流派といわれています。以蔵は半平太と共にこの鏡新明智流を身に付け、剣の道を極めていきます。

下士階級の中でも最低に近い身分の家にたまたま生まれてしまったがゆえに、自分の意志すら一言も言えないままの身分制度の中で、そのうっ屈した自分の全てを剣の道へとそそぎ込む以外になかったのである。


しかし、以蔵はその才能を人斬りへ使ってゆくことになるのです。


彼は“人斬り以蔵”と人々に恐れられるようになった殺人鬼としての顔を持っています。


江戸時代から、剣は戦のためのものではなく、武道としての精神的な色合いが強くなっていきました。
そのため、武士は刀を持ち歩いてはいましたが、斬り合いや殺人事件は実際にはあまり起こりませんでした。
しかし、攘夷派と開国派に分かれて争った幕末のこの時期は、天誅と称した殺人が流行り、以蔵らも自分たちの意にそぐわない人間を残忍なやり方で処分していったのです。


ただ、人斬りで有名になった以蔵ですが、むやみに人を斬るだけでなく龍馬に頼まれて勝麟太郎(海舟)の護衛もします。
近年では、以蔵所有の品として、勝からもらったピストルも見つかったそうです。
もしかしたら以蔵は、剣だけでなくピストルにも興味があり、龍馬のような考えにもあこがれを持っていたのかもしれませんね。

苦悩しながらも殺人に手を染めていく以蔵。
ひたすらまっすぐに剣の修行に励み、半平太に忠義を尽くす純粋な以蔵。


結局はうまく利用されるだけされ、暗殺剣のみを振るわざるをえなかった身分の哀れさは、やはり消すことは出来なかった。


『君が為 尽くす心は水の泡消えにし 後は 澄み渡る空』

この辞世の句が、すべてから解放された以蔵に表れた気持ちである。

自分を語ることのなかった以蔵だけに、この句が彼の気持ちを表す唯一のものかと思うと余計に悲しい。

同じ身分程度の出であった岩崎弥太郎の後のことを考えると龍馬の救いの手があった時、勝海舟の元で少しでも多く学問に触れていたなら、頑なに閉ざされた心を開いていたならばと思う。
せめて、龍馬の傍にでも常に付いていたなら、あの近江屋での龍馬暗殺事件もまた別のものになったのではないだろうか。

しかし、殺人剣のみであった“人斬り以蔵”の生涯で海舟の命を救った剣だけが、ただ一筋 光をともした活人剣であったこと。
それが 彼を地獄から救い出してくれたに違いない。

最期は、張り付けにされ何度も槍で串刺しにされてしまいます。
そう生きるしかなかったのでしょう。


龍馬を初め、さまざまな人々が明日の日本を考え、“異国の領土にされない為には”と、それぞれの視点で行動に出た江戸幕末。


誰が間違っていて、誰が正しい訳でもなくただ一つ日本の為、長州・薩摩・土佐等言ってる場合でもない時代に生まれ“日本人”として生き抜いた激動の時代。彼等の苦悩無しには、今の日本は語れないんです。

そんな時代に誰一人とも生涯人を斬らなかった龍馬と正反対を生きた岡田以蔵のお話しでしたm(__)m