瀬川冬樹氏は元々工業デザイナーであり、そののちオーディオ評論家として

ステレオサウンド誌などで執筆されていた方である。

 

僕は10代の後半からステサン誌を購読するようになりジャズやオーディオ

というものに深く興味を持つことになった。優れた音楽を求め探し、それを

良い音で聴きたい、今でもそれは変わらず1981年の雑誌を引っ張り出したり

している。そんな中、瀬川冬樹氏の書いた文章をもう一度読み返してみた。

 

ステサン別冊にあたる本誌のトップ、一ページ目に氏の記事は掲載された。

「二ヵ月ほど前から都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる」

と文章は始まる。それからオーディオとは無関係なここから見える景色、思い出を

オーバーラップさせた話などが長く続く。どこから本題に入るのだと思うくらい

そんな話が続いたのち、それは製品の持つ音の聴こえ方として引用もされた。

 

この記事を執筆した、そのわずか数か月のち、

神は瀬川氏を手元に呼び寄せられた。

だからこれが氏の遺稿のようになったようだ。

 

自分が求めた音を、それを奏でるに相応しい部屋に移り住み

これからまた新たな発見や気づきがあろうかという状況だ。

 

この記事には氏の製品から受けた衝撃の移り変わり、遍歴などが触れられている。

その時の衝撃を物語るひとつのエピソードとして「三日三晩というもの、

仕事を放りだし、寝食も切りつめて、思いつくレコードを片っ端から

聴き耽った」とある。

 

またこの記述もまた印象深い。それは長い長い時間をかけられ得られた、

ひとつの見識と呼ぶにふさわしい境地に到達するものだ。

情熱の放浪と愛おしいほどの希求を僕らに

置き残していったと思わせてくれる。

 

「その時点での最高の技術を究めた音であれば、とうぜんの結果として、技術が

進歩すればそれは必ず古くなる。言いかえれば、より一層進んだ技術をとり入れ

完成を目指したアンプに、遠からず追い越される。

 

ところが、マッキントッシュのように、ひとつの個性を究め、

独特の音色を作り上げた音は、それ自体ひとつの完成であり、

他の音が出現してもそれに追い越されるのでなく

単にもうひとつ別の個性が出現したというにいうに止まる。

良い悪いではなく、それぞれが別個の個性として、

互いに魅了を競い合うだけのことだ。

(中略)それらの点でいえば

マッキントッシュとて例外とはなりえないので、

やはりJBLのアンプの音はいま聴きなおして

みても類のないひとつの魅力を保ち続けていると、

私には思える。あるいは惚れた人間の

ひいき目かもしれないが」

 

 

デザイナーとは形を造り出す職業であると思われる。

だけどもそれを人に提示するためには、それを

超えるほどの言葉も必要であったのかもしれない。

 

それは僕に分かりようがないことではあるけれども

それ故なのか、瀬川冬樹が尽くす、言葉を連ねた文章には

常人が到達しえない境地からの見識が宿る。

 

それが多くのオーディオファンの共感を誘ったのかも

しれない。(20代も前半の僕が波線を引き、囲っている)

 

(画像は当時のステサン別冊から抜粋させて頂きました)

 

追記

画像にもありますが、この記述も「音が好きな我々にとって」

そうなんだ、それなんだ、うんうん、という

言いたかったことだけれど上手くは言えなかった

出来事ではなかろうかと思う。

瀬川氏が残してくれたフレーズとしてここに

何としても置いておく必要があると思う。

ここだ。

 

「試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、

これも前述したマッキントッシュのC22とMC275 の組み合わせで

アルティックの604Eを鳴らした時の音であった。ことに

テストの終わった初夏のすがすがしい午後に聴いた、

エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲「夕暮れの情緒」の、

滑らかに澄んで、ふっくらと柔らかなあの美しい歌声は、

今でも耳の奥に焼き付いているほどで、

この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。

 

だが、結局はアルティック604Eが我が家に永くは住み着かなかった

ために、マッキントッシュもまた私の装置には無縁のままでこんにちに

至っているわけだが、たとえ、たった一度でも忘れがたい音を聴いた

印象は強い」。

 

以上が抜粋である。

 

 

音を聴くことを格別な出来事と感じる我々としては

深く頷く箇所ではないだろうか。

 

更に言えば、わずかなストリングスの澄み切った響き

生楽器が持っている、ごく一瞬だけ放たれるタッチ音、

EMCレーベルのライル・メイズがしばしば奏でる

幻想のように現れる美しフレーズ、それが流れ星のように

降り注いでくる心地の良さ、

あげてゆくときりがないけれど、我々が音の世界に

全てを忘れて身を置いているその情景が、その理由が

氏の文章には映し出されている。

 

今頃神と共に

「いかがですか?地上の音もなかなかよいものでしょう。

今度一緒に出掛けてみませんか」などと会話している

のではないだろうか。

 

ある日隣に、美しい音に耳を澄ましている

お二方に出逢うこともあるのかもしれない。