2005-11-07 10:56:09

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 最終回

テーマ:ブラジル人

次の日の午後にゴイアニアの友人が一人飛行機で合流した。


彼の父親は大きな牧場を経営していて、みんなは我らの事を「大金持ち」と言っていたが、わたしにはそうは見えなかった。


というのも、一度彼の父親の牧場に遊びに行ったのだけれど、確かにたくさんの牛を持っているかもしれないし、カッコをつけて馬を乗り回していたけれど、どうもなんだか「セコサ」を感じた。


数回、いきつけの近所のバーで会ったことがあるが、なにせ会計が細かいのだ。先に帰る時には、きっちり自分の飲んだ分だけ払っていた。時には少なくも感じた。


その癖、自分の牧場でパーティを開いては自分の富裕ぶりをみせびらかしたい様なそんな感じを受けた。


そして、わたしは合流して来た息子が生理的に受けつけないタイプだった。彼は、親に出資してもらって建築材料の販売店を経営していたけれど、いわゆる親掛かりな人生を送っているのが数回会っただけで見て取れた。彼には、美人な婚約者がいるにもかかわらず、うちの人の弟と暇さえあれば女漁りに出掛けていた。


そして、フォタレザにも女遊びに来たことが感じられて嫌気がさした。実際、その日のうちに弟と二人で海岸近くに住む10代も前半くらいのまだまだ子供にしか見えないモレーナ(黒人と白人のミックス)を数人従えてビーチにあるバーで飲んでいた。


彼女達は、家が貧しく仕事もないから暇さえあればビキニで海岸をうろついて観光客に買ってもらう売春婦なのだ。そんなことを説明されなくてもすぐにそうだと理解できた。テーブルを囲んでも話をする訳でもなくただ座っているだけ。そんな幼い少女らにベタベタしている二人の男を蔑む眼差しで見つめたけれど、彼らにはそんなわたしの表情も全然理解できないでわたしに冗談を言ったりしてきた。


そういうバカなやつらは相手にせず、久々の海で子供のようにシュノーケルンに励むうちの人とブラジルの海を楽しむように心掛けた。


モホブランコ周辺には国が貧しい人達のために無償で建てた同じ形のみすぼらしい家がたくさん並んでいて、この辺りの人口のほとんどがそこに住んでいるのではないかと思われるくらいだった。そして、観光化が進んでいない海岸周辺にはたいしたお店もなければもちろん工場もない。男の人にいったい仕事が存在するのかが不思議でならなかった。


数日経って、食料品が不足してきたというのでビーチに一番近い小さな町へうちの人と弟、わたし、その友人で繰り出すことになった。スーパーで必要な物を物色しつつ、珍しいお菓子があったからそれもまとめてわたしが払った。


その時に、しみじみと思ったのだけれど、わたしの日本での人生において、大の大人の男が女性に支払いを全てさせるのは、日本では恥ずかしいことだという常識があるけれど、ブラジル人は気にしない。お金がある人が払えばいいと思っている。わたしの嫌いなこの友人も金持ち風を吹かせる癖に、一切お金を出す気はないのだ。だいたい、お義父さんの海の家にただで宿泊させてもらっているのだから、多少の心遣いをするべきなのではないかと思うわたしの方がここでは変わった考え方の持ち主なのだった。


そして、食料をのせた車で海の家に帰る途中、その友人はわたしの買ったお菓子が食べたいとまで言い出す、ずーずーしさに呆れてしまった。


そんな居心地がいいとはいえない海の家を10日ほどで後にしてわたし達はまた、同じメンバーで車でゴイアニアへと向かったのだった。


帰りは意外にスムーズで、車のすし詰めにも慣れてしまったのか車内ではほとんど眠っていたわたしは、気が付くとゴイアニアへと帰って来ることができたのだった。


ほんの数日間のモホブランコ周辺で見たものは、ブラジルの真実の姿なのだとしみじみと感じた。ゴイアニアはまだいい方なのだ。働く気さえあれば仕事だってみつかる。モホブランコ周辺には仕事自体が存在していなかった。だから、今も尚、あの周辺からゴイアニアへ出稼ぎにやってくる若者も多い。


毎日海岸をうろつき、観光客に買ってもらうことを覚えた少女達はきっと10代のうちに父親の分からない赤ちゃんをポロポロ産むことになるのだろう。そして、貧困は繰り返されるのだ。ブラジルには、こういう少女達がたくさん存在する。この国にはいったい何が必要なのか?教育の徹底?性教育?経済政策?あまりに混沌としていて何がこの国を救ってくれるのか考えると頭が痛くなる。それでも、何かできるはずだと諦めたくはない。。。

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2005-11-06 09:35:29

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第8話

テーマ:ブラジル人

お婆ちゃんの家で小1時間ほど過ごした後、近くに点在するというお義父さんの親族達を尋ねることになった。


最初に訪問したのはもともとはお爺さんが所有していた牧場を次いでそこに住んでいる家族達の家だった。前回書いた様にお爺さんにはたくさんの子供がいたから、お爺さんがなくなった後は牧場は兄弟達に分配されたということだった。


ちなみに、お義父さんは長男だったのだが貧乏な牧場生活が嫌で家を飛び出してゴイアニアに出て来たという経緯があったので、遺産分配の時には辞退したという事だった。というのも、分割された牧場に住む数軒の親族達を尋ねても、誰も豊かとはいえない暮らしぶりだったから、ゴイアニアで自力で学校を出て、取り敢えず測量技師として国の機関で仕事をしていた義父の暮らしは、彼らのそれに比べると断然ましだといえた。


わたしの知っている中では、彼らの生活は「牧場管理人」レベルのものだったのだ。ただ、生活するのに精一杯でムダなものは一切存在していなかった。お義父さんのように知らない土地に一人で出ていく勇気のある人がこの田舎町にどれくらいいるのかは分からなかったが、この町に生まれてこの生活しか知らない人達は、自分達の貧困は分かっていても、どうすることもできないんだろう。ただ、自分達の土地で生活するには十分とは思えない牛を飼育して売る。その繰り返しだ。間違っても余分な収入はないから牛を増やすこともできなければ、そんな夢も思い描かない。そうやって、ただ年を取っていくのではないかと思えた。


彼らには、突然やって来た、アメリカ帰りの親族と貧しくは見えない外国人が訪問して来てもどう対応していいのか分からない。自分達には夢のまた夢である自家用車でやってきた親族に、笑顔で迎え入れることができるほど悟りを開けるわけがない。ただ、子供達は元気だったのが救いだった。


その後、違う小さな町に住む親族宅をいくつか訪問した。


ある家族は、夫婦に娘3人という女性ばっかりの所帯で、「ゴイヤバ(グァバ)」を加工して販売していた。家の裏に行くと大きな鍋でグァバをぐつぐつと煮ている所だった。火種はもちろん薪である。ただでさえ暑いフォタレザの昼下がりに、大汗を掻いて顔を真っ赤にしながらグァバが焦げないようにずっと大鍋の横について鍋をかき混ぜる作業。いったい何時間そうやっているのだろうか。そして、その横では水分を飛ばして濃縮したいってみると「グァバ羊羹」の様な物をせっせと棒状に整えて砂糖をまぶしてカットしてビニールに巻くという作業を小学生くらいの女の子が二人でやっていた。毎日毎日同じ作業を繰り返しても、「ゴイヤバ」のお菓子はありふれていて、とてもいい値がつくものではないことは、ブラジルを訪問したばかりのわたしにでも分かっていた。そこでも、家族みんな戸惑いの表情だったが、瓶詰めのゴイヤバを数個購入すると笑顔でサヨナラを言ってくれたものだ。


唯一ましな生活をしている家族がいて、幼い頃にうちの人達と遊んだ記憶のある女性は大歓待でわたし達を家に招き入れた。生活レベルが上がるほどに人間には心の余裕が出て来るものだとしみじみと思った。


つづく

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2005-11-03 10:13:49

ゴイアニア~フォタレザ 2千キロの旅 第7話

テーマ:ブラジル人

caju

(写真はカジュ)

次の日の朝、背中の痛みで目が覚めた。。。


たった20分くらいの日焼け止めなしでのモホブランコツアーでここまで火傷状態になるかというくらい真っ赤に腫れあがっているわたしの背中は、キャミソールのヒモがあたるだけで激痛が走っていた。


それは、ブラジルの赤道に近い辺りの日差しが半端なものでない事を物語っていた。そして、白人のような白い肌をしていないブラジル人だとサンオイルをテカテカに塗って1時間くらい平気で日向に寝転がって日焼けを楽しんでいるのだから、それもすごい。


彼の家族は、わたしが神経質なくらい日焼け止めを塗っていたにもかかわらずこういう状態になっている事にびっくりしていた。


その日はとてもビーチに出れないと思っていたら、義父さんの家族に車で会いに行く事になっていた。車は1台しかないからまた、彼と弟、義父とその彼女とわたしでのドライブだ。


来る時、フォタレザに入った頃には周りは真っ暗で景色なんか全然分からなかったので、この日はゴイアニアとは違う海岸の近い風景を楽しみながらドライブできた。フォタレザの辺りは「CAJUカジュ」という種部分が「カシューナッツ」になるフルーツの産地だったのでところどころにカジュが実っていた。また、巨大なヤシのような形の木が野生でなく植樹されたようにたくさん茂っていて、それにしては長い間放置されているような感じがしたから何の木なのか尋ねると


「昔はレコード盤の材料として輸出されていた木だよ」


という答えが帰って来てびっくりした。わたしはレコードが木からできているとは知らなかったのだ。なんだか、そんな時代に取り残された木々達を眺めていると、このフォタレザ近くの田舎町も時代に取り残されたまま忘れられた存在のように感じられた。。。


2時間ほど乾燥した風景を眺めてドライブをして、義父の母が40才くらいの孫である女性と暮らしているという小さな佇まいに到着した。


まずは、簡単に挨拶を済ませて少し話しをした。というか、わたしは当時ポルトガル語が全然分からなかったから、雰囲気だけを楽しんだ。


お婆ちゃんはお爺ちゃんに先立たれた後、牧場からこの小さな町に移って来たようだった。オランダ系移民の子孫で小柄で白髪を肩より下まで伸ばして後ろで束ねていた。足が弱っているらしく動作は緩やかだけれど爪にはピンクのマニキュアが塗ってあり、お洒落心は忘れていないようだった。けれど、その指はどれくらい働いたかを誇示するかのように大きくてごつごつしてて、右手の親指は変形していた。日本人にしては大きな手のわたしだったが、お婆ちゃんの手と並べるとなんとも貧弱に見えて苦労知らずのわたし手を見ながら「きれいな手だね」というお婆ちゃんに対して少し恥ずかしくなった。。。とっても人懐っこく、わたしの事を気に入って、言葉が分からないのに、ソファで隣に座りずっとわたしの手を握っていた。


わたしが片言のポルトガル語で


「おばあちゃん、何才なの?」


と聞くと、大笑いしながら


「もう、忘れるくらい年をとっちゃったわ」


といってホントに覚えてないようだった(笑)


若い頃、家族で撮ったという大きな写真を持って来て見せてくれると、そこには長身でハンサムなお爺さんの姿があった。


お婆ちゃんに


「子供は何人いるの?」


と尋ねると


「14人。。。かしら?」


わたしがビックリ仰天していると


「その中でわたしの子供は9人よ」


と言った。お爺ちゃんはかなりの遊び人だったようだ。。。


そんなたわいもない会話を続けている所へお婆ちゃんと一緒に住んでいるという孫の女性が彼氏を伴って帰って来た。


彼女は、まずわたし達に挨拶して彼氏を家の中に招き入れた。すると、その男性は「モリさん」という日系人だった。


モリさんは二世だということだったが、日本へは短期訪問したことがあるだけで、出稼ぎの経験はないといっていた。なので、彼の話す日本語は両親から教わったというちょっと古めかしい表現が多かった。彼自身も当然だけれど、ポルトガル語の方が楽だと言っていた。


モリさんはブラジルで生まれ育ったわけだから、流暢なポルトガル語を話すけれど、ポルトガル語の中にも両親から躾られたのか、日本人的な気配りの表現が所所にうかがわれて「あれっ?」と思った。


ブラジルで先においとまする時に


「話の途中で大変申し訳ないけれど。。。」


と、自分はが話し掛けられている訳でもないのに謝って帰るブラジル人なんか見た事がなかったわたしには、かなり新鮮に感じた。


つづく

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