眠れない夜のために ひとときの時間を
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未来日記1

県立緑山高校。入学してまだ数か月。高校生活は楽しいものだと思っていた高橋結(たかはし ゆい)の毎日は、想像とはまるで違っていた。「ねぇ、結。また教科書ないんじゃない?」



 クラス中に聞こえるような声で笑う西岡咲。その隣では本山奈央が、結の机を指でトントンと叩いていた。「あれー? どこいったんだろうね。」教室の後ろを見ると、自分の教科書がゴミ箱の横に落ちている。笑い声が聞こえる。でも結は何も言えなかった。

気弱な性格の結は、先生に相談する勇気もない。「私が我慢すれば…。」そう言い聞かせる毎日だった。机には油性ペンで書かれた落書き。「暗い」「キモい」「消えろ」休み時間になるたびに胸が苦しくなった。昼休み。

結は誰にも気づかれないように教室を出る。向かう先は、校舎三階の図書室。そこだけは静かで、本の匂いに包まれている。「ここなら…少しだけ息ができる。」結はいつもの窓際の席に座り、本を開いた。ページをめくる音だけが聞こえる。

その時だった。少し離れた席に、一人の男子生徒が座っていることに気づく。同じクラスの橘優希(たちばな ゆうき)。授業ではあまり目立たず、休み時間も誰かと騒いでいる姿を見たことがない。優希は分厚い文庫本を静かに読んでいた。窓から差し込む光を受けながら、一度も周りを見ることなくページをめくっている。




結は思わず目を奪われた。「同じクラスなのに…こんな人いたんだ。」その瞬間、優希がふと顔を上げる。結と目が合った。慌てて結は本に視線を戻した。胸が少しだけ高鳴る。図書室の静けさの中で、二人の小さな出会いが始まった。

上司と部下の関係14(完)

 それから、しばらく経った。関口への処分期間も終わり、部署には少しずつ以前の日常が戻っていた。由美も、今回の件をきっかけに仕事への向き合い方が変わった。ミスを恐れるだけではなく、分からないことは確認する。問題が起きたら、一人で抱え込まずに相談する。そして何より――。「自分の仕事には、自分で責任を持つ」それを意識するようになった。ある日の夕方。由美が仕事をしていると、課長から呼ばれた。「田島さん」「はい」「ちょっと話がある」課長の表情は、いつもより重かった。「関口主任のことなんだが……」「主任が?」由美は顔を上げた。「退職することになった」「……え?」由美の手が止まった。「退職……ですか?」「ああ。本人から申し出があった」「どうして……」課長はしばらく黙った。「理由については、本人から直接聞いてほしい」「……分かりました」由美は席に戻った。関口は自分のデスクで、いつも通り仕事をしていた。何も変わらないように見える。「主任……」「ん?」「退職されるって……本当ですか?」関口は少し驚いたような顔をした。「もう聞いたのか」「はい……」由美の声が震える。「どうしてですか?」関口はしばらく黙っていた。「俺も、そろそろ次に進もうと思ってね」「次……?」「うん」関口は窓の外を見た。「昔のことを、ずっと引きずっていたんだと思う」由美は黙って聞いていた。「部下を守れなかったことが悔しくて、その後は何があっても自分が前に出ようって決めた」「……」「でも、今回のことで少し考えが変わった」関口は由美を見る。「田島さんは、自分のミスから逃げなかった」「……」「俺が全部背負おうとしても、それを受け入れなかった」由美は目を伏せた。「だから俺も……もう、自分だけが背負うやり方を変えなきゃいけないんだと思った」「主任……」関口は笑った。「それに、高橋さんにも謝ることができた」晶子の名前が出て、由美は少し驚いた。「……はい」「これでようやく、昔のことを終わらせられる気がしたんだ」由美の目に涙が浮かんだ。「でも……」関口は優しく笑う。「心配しなくていいよ」「……」「田島さんなら大丈夫」その言葉を聞いた瞬間、由美は泣きそうになった。



退職の日。関口のデスクは、すっかり片付いていた。最後の仕事を終えた関口は、部署の一人ひとりに挨拶をして回った。そして最後に、由美の前で立ち止まる。「田島さん」「はい」「これ」関口が一通の封筒を差し出した。表には、『田島さんへ』とだけ書かれている。「……手紙?」「うん。帰ってから読んで」「主任……」「じゃあ、元気で」「……はい」関口は笑って、その場を離れた。その日の夜。由美は自宅で封筒を開けた。便箋を取り出す。そこには、関口の字でこう書かれていた。『田島さんへ。今回のことでは、本当に大変な思いをさせてしまいました。俺は君を守りたかった。でも、君自身が「自分の責任から逃げたくない」と言ったとき、俺の考え方が少し変わりました。守るということは、何でも自分が背負うことではない。一緒に責任を背負って、一緒に前を向くことなんだと思います。君にはそれを教えてもらいました。ありがとう。これから先、失敗することもあると思います。そのときは、一人で抱え込まないでください。誰かに助けてもらってください。そしていつか、君が後輩を持つ立場になったら、その人にも同じことを伝えてあげてください。失敗しても、やり直せる。一人で抱えなくていい。俺が君に伝えたことを、次の誰かにつないでくれたら嬉しいです。今までありがとう。田島さんのこれからを、心から応援しています。関口裕太』


「……主任……」由美の頬を涙が伝った。そして便箋を胸に抱いた。「……私、忘れません」一方。会社の清掃員控室。晶子も、一通の封筒を開いていた。『高橋さんへ。最後に、もう一度だけ謝らせてください。娘さんを守れなかったこと。あのときのことを、俺はずっと後悔していました。でも、高橋さんに「あの子は関口さんを恨んでいない」と言っていただいて、ようやく少しだけ前を向けるようになりました。ありがとうございました。娘さんにも、いつか直接お礼を伝えられたらと思っています。どうか、お元気で。関口裕太』


晶子は便箋を静かに畳んだ。そして、窓の外を見ながら微笑んだ。「……もう大丈夫ですよ、関口さん」「あなたは、十分頑張りました」翌朝。関口は会社の正面玄関に立っていた。手には、退職の荷物。もう社員証も返却している。最後に一度だけ、建物を振り返った。ここで多くのことがあった。楽しかったこと。苦しかったこと。守れなかった部下。そして、最後に守ろうとした由美。関口は静かに頭を下げた。


「……ありがとうございました」そして、歩き出す。今までなら、背中には過去の後悔が重くのしかかっていた。けれど今日は違った。晶子に謝ることができた。由美にも、自分の想いを託すことができた。そして何より――。もう、自分一人で誰かを守ろうとしなくてもいい。関口は前を向いて歩いていった。それから一年後。由美は後輩社員の指導を任されるようになっていた。ある日、後輩が青ざめた顔で由美のところへやってくる。「田島先輩……すみません。私、発注の数字を間違えてしまって……」後輩は今にも泣きそうだった。由美は一瞬、あの日の自分を思い出した。そして、関口の言葉を思い出す。――一人で抱え込まないでください。由美は優しく笑った。「大丈夫」「……え?」「まず、一緒に確認しよう」後輩の目に涙が浮かぶ。「でも、私のミスで……」「うん。だからこそ、一緒に原因を探そう」由美は後輩の隣に座った。


「私も一人で抱え込んでたら、きっと何もできなかったと思う」そして、心の中で呟く。(主任……)「失敗しても、やり直せるから」それは、かつて関口裕太から教えてもらった言葉だった。由美はその言葉を、次の誰かへ渡していく。――関口が守ろうとしたものは、もう由美の中に受け継がれていた。そして関口自身もまた、新しい人生を歩き始めていた。過去を背負い続けるのではなく。過去を胸にしまいながら。前を向いて。

上司と部下の関係13

処分が決まってから、数日が経った。
関口はいつも通り仕事をしていた。
減給処分を受けたことなど、周囲にはできるだけ見せない。
部下にも普段と変わらない態度で接していた。
一方、由美は時々、関口の横顔を見ていた。
(……主任)
あの人が今まで、どれだけのものを背負ってきたのか。
由美は、晶子から聞いた話を思い出していた。
そんなある日の夕方。
仕事を終えた関口が廊下を歩いていると、清掃中の晶子を見かけた。
関口の足が止まる。
「……高橋さん」
晶子が振り返った。
「関口さん……」
二人の間に、少し重い沈黙が流れる。
関口は周囲を確認した。
「少し……お話してもいいですか?」
「……はい」
晶子は掃除道具を脇に置いた。
「何でしょう?」
関口はしばらく何も言わなかった。
そして――。
ゆっくりと頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
晶子の表情が変わる。
「関口さん……」
「娘さんのことです」
晶子は黙った。
関口は頭を上げない。
「俺が……守れませんでした」
「……」
「あの頃の俺には、力がありませんでした」
「……」
「部下を守るって言いながら、結局、会社や上司に言われるままになってしまった」
関口の声が震える。
「もっと早く動いていれば」
「もっとちゃんと上と話していれば」
「もっと……あの子のそばにいてやれば」
晶子は黙って聞いていた。
「結果的に、娘さんは会社を辞めてしまった」
関口はさらに深く頭を下げる。
「本当に……申し訳ありませんでした」
しばらく沈黙が続いた。
やがて晶子が静かに口を開いた。
「……もう、頭を上げてください」
関口はゆっくり顔を上げた。
晶子は関口をまっすぐ見ていた。
「私は、関口さんを責めるために、この会社で働いているわけではありません」
「……」
「娘から、全部聞いています」
関口の目が揺れる。
「……娘さんから?」
「ええ」
晶子は小さく頷いた。
「関口さんが、あの子を庇おうとしてくれたことも」
「……」
「最後まで、何とか会社に残れるように動いてくれていたことも」
関口は言葉を失った。
「でも……俺は守れなかった」
「そうですね」
晶子は否定しなかった。
「結果だけ見れば、そうです」
関口は俯いた。
すると晶子が続けた。
「でも、あの子は関口さんのことを恨んでいませんよ」
「……本当ですか?」
関口が顔を上げる。
「はい」
晶子は少し微笑んだ。
「あの子が最後に言っていたんです」
「……何と?」
「『関口さんは最後まで私の味方だった』って」
関口の目に、涙が浮かんだ。
「……そう、だったんですか」
「ええ」
晶子は静かに言った。
「だから、関口さんが自分を責め続けていることを知ったら、あの子はきっと困ると思います」
「……」
「もう、十分ですよ」
関口は何度も頷いた。
「……ありがとうございます」
晶子は首を横に振る。
「こちらこそ」
「え?」
「娘を守ろうとしてくださって、ありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、関口は再び深く頭を下げた。
今度は謝罪ではなかった。
「……ありがとうございます」
関口の声は、少し震えていた。
その様子を、少し離れた廊下から由美が見ていた。
偶然、通りかかったのだった。
由美は足を止める。
(……晶子さん)
そして、関口を見る。
(主任……)
今まで聞いてきた噂。
「パワハラで女性社員を辞めさせた主任」。
でも、目の前にいる関口は、その女性社員の母親に頭を下げている。
由美は胸が熱くなった。
――関口主任は、ずっと後悔していた。
だから、部下がミスをするたびに自分が前に出る。
沙織のときも。
そして、自分のときも。
由美は小さく息を吐いた。
「……主任」
関口が振り返る。
「田島さん?」
由美は少しだけ笑った。
「……お疲れさまです」
「お疲れさま」
関口もいつものように笑う。
しかし、由美にはその笑顔が、以前よりずっと深く見えた。
過去の後悔を抱えながら、それでも部下を守ろうとしている。
そんな関口の姿を、由美はもう「噂」ではなく、自分の目で見ていた。



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