古墳時代・飛鳥時代・戦国時代・幕末と色々好きなのですが、いかんせんキャパオーバーです。
頭がすっかり固くなってきたので、近頃は覚えるよりも忘れる方が多いので、様々な調べたい事が『あれこの人ナニした人だっけ』やら『この後どんな流れになったんだっけ』やらで邪魔されて前に進みません。
50まで調べた事があって、100まで知りたいのに20から先が忘れてて、また21から調べてたら60までしか進まなくて、次に調べるまでの間隔が空けば空くほどに覚えた事が消えていきます。
なので、何か興味を持ったテーマがそのまま放置される事がしばしば。
ファイル整理してたらそんな残骸が一つ掘り起こされたので晒してみます。
「前田慶二大和没説」
「かぶき者」として隆慶一郎さんの小説や原哲夫さんの作品で有名ですね。もちろんオイラも週刊ジャンプの「花の慶次」で知ってその魅力に取り付かれました。
様々なエピソードの真偽は置いといて、慶次(分かりやすくこの呼び名で統一します)の最後については上杉家に仕官のち、米沢で亡くなり当地の「一花院」(廃寺)に葬られたとなっています。
もう一つが、大和没説。
意外とコレが、そんなにオカルト扱いでもなくある程度の信憑性を持って慶次好きさんの中でも支持する方が少なくないとの事。
慶次大和没説の根拠となっているのは、加賀藩の資料に残る「野崎知通」さんの遺書。
ざっくり説明すれば、年をとってからも慶次の奇行が続いたので、前田利長の命で大和国刈布に飛ばされ、そこで亡くなったと。野崎さんには自分の最後を看取るように命じていたそうです。
遺骸は安楽寺という寺に葬られ、 「龍碎軒不便斎一夢庵主」と刻まれた幅四尺高さ五尺の石碑が建てられたとの事です。
ただ、その刈布の場所が特定できない(石碑が発見されれば一発認定なんでしょうが、無理でしょうね。。。)事と、この野崎さん自身の信用度があまり高くないって事で米沢没説が主流になってる様です。
一時期、地名辞典やらを図書館で読み漁りまくって個人的に調べましたが、素人にはまったくもって無理でした。
記述によると、『大和刈布村というところは同国の旧跡当麻寺の山を左に西へ二里行って里あり、茂林と云う。夫より南へ一里なり。』とあります。
魏志倭人伝ではないですが、記述通りだと奈良と大阪の県境の里なんて無さそうな山の中になります。
で。
歴史家の今福匡氏が独自に刈布の場所を推定されています。
・野崎著で「刈布」は「カリメ」とルビがあったが、「カリフ」と呼ぶのではないか
・前田家の領地があった宇陀市菟田野古市場の北方、大沢地区や見田地区はかつて「カリウ」と呼ばれてたらしいぞ
で。
当時(?)のオイラ、この説に乗っかる為に珍説を思い付きました。
野崎さん・・・加賀の人が思い出しながら書いたのなら、「当麻寺」が勘違いなんじゃね?あちこち有名な寺を巡ってるうちゴッチャになったんじゃね?
「当麻寺」と「室生寺」(女人高野として有名)を間違ったんじゃね?
都合の良い事に(笑)、宇陀市に「母里」(モリ)という地名があります。
『当麻寺の山を左に西へ二里行って里あり、茂林と云う』
苦しい・・・が、あながち検討外れでも無い。誤差の範囲内と言えなくも無いのではと言って過言ではない様な気がしないでもない。
『夫より南へ一里なり』
苦しい。。。が、これまた(以下略)
あっ
オチですが、もちろんこの安楽寺の境内に件の石碑などありません。
さらにここから南に行った所に「安楽寺廃寺跡」とかありますが、この辺りでこの件は棚上げになったまま現在に至るまで塩漬けにされております。
そのうち調査を再開するのかは自分でもまったく分かりません。
こんな事してる時が一番楽しいわ。