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撮り歩き写真館

風景、人物、スナップなどジャンルにとらわれず撮り歩きます。

        江ノ島

 11月3日江ノ島灯台のあるサムエルコッキング苑で市川紀元氏による写真教室があると聞いて参加した。市川氏といえば地元藤沢市在住の写真家で湘南の海やサーファーをテーマに素晴らしい作品がを発表している。その教室が無料なのだ。

 写真の撮り方を人に教えるというのは実は非常に難しい。日本の代表的な写真家斎藤康一先生に「写真教室の実技はやらないのですか?」と聞いたことがある。「あんな退屈なものはない。時間が終るまでタバコを喫って待ってるだけだからね」たとえばある生徒がどう撮ればいいかを聞いたとしよう。「あの竹林を左側に真ん中に梅の木を右に松を」と答えればそれは先生の考えた構図であり生徒のものではない。明るさ、絞り、シャッター速度などなど全てにおいて生徒が自ら考え、悩み、呻吟しながら切りとっていくものである。また鎌倉在住の写真家 十文字先生は建長寺の山門の前でそのあまりの存在感に柱のたもとに座り込み何が私をこんなに引き付けるのかとおよそ1時間考え込みそれからおもむろに柱の根元を撮影したという。つまり自分の心を揺すぶるものが何なのかを感じ取ってから撮影するのだ。こんなことをどうやって教えられるだろう。私の知人で「あの先生は何にも教えてくれない」という人がいるが結局自分が苦悶したあとで「こういう時はどうすればいいか」と聞けば様々な経験をしている先生がヒントをくれるかもしれない。


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       市川先生と司会進行の田畑智朱希さん(レディオ湘南)

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     サムエルコッキング苑のステージより

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          江の島灯台と夕暮

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       江ノ島は猫ちゃんの楽園だ

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          燃え上がる江ノ島(鎌倉高校前より)

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          和賀江島から江ノ島を望む

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        和賀江島から江ノ島を望む

      上高地

 上高地に行ってきた。昨年は10月中旬に行ったが紅葉に少し早すぎたと思い今年は1週間遅れていった。

 上高地は長野県西部にあり飛騨山脈南部から流れる梓川流域一帯である。中部山岳国立公園の一部で標高約1500mの高度である。河童橋上流の明神池のそばにある穂高神社奥宮の御神体穂高山より神が降りてきたという言い伝えから「神降地」という説もある。また大きな峠の下の村を「上河内」と呼んでいたという説もある。

 上高地が開けたのは17世紀に樹木伐採のため松本藩が今の明神に役人小屋を建てたのが始まりと言われる。明治29年にはイギリス人宣教師ウォルターウェストンが日本アルプスを英国に紹介した。彼は上高地と穂高連峰をこよなく気に入り何度も登山している。清水屋ホテルの近くにウェストン碑が建っている。

 大正4年焼岳の噴火によって梓川が堰き止められ大正池が生まれた。池の中に立ち枯れた木々の景観が大正池の風物詩ともなっている。清冽な湧水があふれる田代池を過ぎて河童橋に着く。河童橋と言えば昭和2年梓川と河童橋に題材を得た芥川龍之介の「河童」が発表された。そして同年龍之介は自殺している。

 最後に上高地のある松本市安曇または長野県安曇野市など安曇は信州独特の名前だと思っていたが福岡市博多湾上に浮かぶ志賀島は漢の王より邪馬台国の女王卑弥呼に下された漢委奴国王印(かんのわのなのこくおうのいん)という金印で有名だがこの島にある志賀海神社の宮司さんが代々安曇姓であることを知った。調べてみるともともとこの一帯が安曇族の本拠であったのだ。その移住先が長野や滋賀の安曇であったり愛知の渥美であったりするのだ。

大学生の頃志賀島を訪れたことがあるがその境内にある鹿角堂(ろっかくどう)には鹿の角が1万本も収められているがこの角はどこから来たのだろうか。いまも不思議である。

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       水面から立ち上る幻想的な霧


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       夜明けとともに湖岸の紅葉が目に飛び込んでくる

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        全山紅葉しているがまだ暗くて・・・

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      草もみじを楽しみに行ったが霜で覆われている

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      清冽な田代池の水も手を切るように冷たい

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        午後の日差しに誘われて梓川で遊ぶ人たち

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        清水屋国際ホテルも紅葉に包まれている

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       カラマツの紅葉と冠雪の穂高連峰

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       河童橋と紅葉

   川越まつり

 先週の佐原が利根川と小野川を通じて江戸の経済と文化を運んで繁栄したように川越も荒川と新河岸川の水運及び川越街道によって江戸から影響を受けてきた。当然祭りの囃子も江戸囃子の流れを汲む。

 寛永の川越大火(1638年)で街の大半を消失した翌年、街の再興を期すため幕府老中筆頭の松平信綱が川越藩主になった。そして復興を祈願して総鎮守の氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓などを寄進した。その神輿の渡御が川越祭りの起こりと言われる。山車は29台存在し山車の上にそれぞれ異なる人形が飾られる。家康や信綱太田道灌など江戸にちなんだ人物や神話の主人公などが人形になっている。明治以前に制作されたものには江戸の名工仲秀英、原舟月の作品が残っている。街角で鉢合わせした山車がお互いに向き合って踊りの振りや手振りでどちらが先に通り抜けるかを決める引っ交わせがこの祭りの一大特徴だ。また山車の若衆が提灯を高く掲げて引っ交わせせを囃す宵山は特に見応えがある。

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      蔵の街を通る山車 電線を避けるために人形は下げている。

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        氷川神社に伝わるお面

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         蔵の街におかめが踊る

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     牛若丸を乗せた山車

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       白虎が引っ交わせで舞う