常識がない。 | 「淡路島のはいちゃんにっき」

常識がない。

アインシュタインは、

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

という言葉を残しているそうです。

ほんまかいな?

でも、うーんと考えさせられる言葉です。


ぼくは、以前受けた発達検査(WAIS-Ⅲ)で「社会的常識」の点数がかなり低かったのです。
そのようにフィードバックされたときに、僕はとても納得感があり、そして安心しました。


多くの人が「◎◎のときは、〇〇すべきである」と考えていることを、僕はそのように思っていないところがあります。そういうことが結構たくさんあります。

というよりも、なんで「そうすべき」なのかが、理解できない感じなんです。
自分としては、本当に、そうすべき理由がわからない(事柄によっては、感覚的にそう思う理由がわかりません。)

だから、僕としてはよくわからないんだけれども、相手の人がそう思うのだから、そうしよう。
ということになります。(そんな風に思っていることを伝えることも、軋轢を生む可能性があるので普段はあまりいいませんが)

そんな風にして常識を身につけてきたことは、今もちろん役に立っています。

一方で、少し前までの僕は、この「常識」を身につけて、それに合わせて常識の範囲内で生きようとしてきたのですが、だんだんとそのような「常識的な」働き方や対応というのはあるけれども、それに合わせすぎることの不自然さを感じていたと思います。

それは、椎間板ヘルニアなどの「痛み」として身体症状に現れました。(会社員を退職したらこの痛みはほとんどなくなりました。)

大学生の時に親から言われた「お前は常識がない!」という言葉も記憶に残っていますし、もっと前の中学生のころに、誰にも言えないような「非常識的」な考えを抱えていたこともありました。

どこかで「常識的ではない自分」を否定していて、「非常識的なことを考えている自分」を表現することを罪のように感じている、と自分を振り返っていてわかりました。

この辺りが今年の僕の課題です。


ソーシャルスキル的に、

「この場面ではこのように対応するべき」
「こういう会話では、こんな風に返答する」

と、一個一個の状況に応じた個別の常識的な対応を学ぶことはもちろん出来るけれど、それで常識人のように周りから見てもらう事はできると思うのですが、でもそれはどこまで行っても自分自身ではありません。


そのような僕個人の経験による意見ですが、

常識は身に付けると役立つのだけれど、常識はその人自身ではないので、
常識を誰かに教えるとき求めるときには、注意を払う必要が有るんじゃないかなと思っています。
特に子どもには。

淡路島で発達支援コーチング、はいちゃんでした。