東京育ちの人間には、ふるさとがないと思う。下町の人にとってはそんなことはないのかも知れないが、東京都下の住宅街に育った僕には、ここがふるさとだといわれてもピンとこない。街の風景が移り変わるスピードが、あまりにも速すぎるためではないかと思う。東京の実家に帰るたびに、武蔵野の雑木林は少しずつ消え、真新しい家の並ぶ分譲地に姿を変える。昔、実家に近い中央線の駅の階段から見える、物悲しい夕暮れの景色が好きだった。実家を出て間もない頃は、たまに帰ってきてあれを見ると泣きそうな気持ちになったものだ。しかし、いまや駅はすっかり新しくなり、清潔になってしまった。何だか知らない街に来たみたいだ。ちっとも泣けない。泣けないふるさとというのは興ざめなものではないだろうか。
 そんな東京育ちの僕にとって、ふるさとらしい懐かしさを感じられる唯一の場所は、高知の鄙びた海辺の町にある母の実家だ。小さい頃、夏休みになるごとに家族で1週間泊まったものだ。そのうち1日はみんなで近くのプールに行くか、海水浴に行ったが、その他はあまりやることがなかった。炎天下、犬と散歩に行った。犬を連れて勝手口を出て、細い路地を抜けて田んぼに出る。川沿いの砂利道をてくてく歩きながら、アマガエルをつかまえたり、浅瀬に群れた小魚を眺めたりしたものだ。
 防波堤に釣りに行く時もあった。今は誰も住んでいないので、食べてくれる人もいないが、あの頃は祖父も祖母もおばも、とにかく釣った魚を食べてくれるひとたちがいた。釣った魚が珍しくても、沢山でも、おいしくても褒めてくれるひとたちがいた。後先考えずに釣りができるのは幸せなことだ。今はどこかに釣りに出かけても、たくさん持って帰って自慢したり、みんなで食べる楽しみがなくて寂しい。防波堤に着くまで町を歩くのだが、とにかく暑いので昼間は町に人気がない。やたらとクマゼミの鳴き声ばかりがうるさく、時間が止まったようだった。そこをぬけると、防波堤の向こうに見えてくる藍色の海。今でもはっきりと思い出せる泣ける景色だ。
 母方の祖父は開業医だった。海軍の軍医あがりだ。フィリピンの山奥をさまよって、修羅場を生き残った。僕が医者になったのは、完全に祖父の影響だ。小さい頃から祖父が若い頃に使っていた顕微鏡をもらって、夏休みの自由研究をしていた。そのせいか、今の医者は顕微鏡をのぞくことなぞ少ないが、僕は内視鏡や超音波をやらないかわり、今も顕微鏡ばかり使う。打聴診や触診が好きなのも、ろくな医療機器もないジャングルで軍医をした話を刷り込まれたからだ。
 開業医だった祖父の家は、家中からクレゾールのにおいがした。犬の散歩でしょっちゅう通る裏の細い路地は、病室に面していたせいか、特ににおいが強かった。高知にいるあいだ、クレゾールのにおいのする路地を抜けて、毎日僕は犬と散歩に出かけた。そこを抜けると、一面の田んぼがひろがっていた。高知の風景は、東京に比べて白っぽく見えた。土の色や山の緑が違うのだと思う。道路のアスファルトも、南国の光と潮風で焼けたかのような、白っ茶けた色をしていた。
 現在の医療機関ではクレゾールを使用することは非常に少ない。医学部に入学しても、あのにおいを東京で経験することはなかった。しかし、医学部の3年生では、細菌学実習をする。この時にはどういうわけか今でもクレゾールを使用する。実習初日に細菌実習室に入った途端、懐かしいクセのあるにおいとともに、あの白っぽい一面の田んぼの景色がよみがえった。ああ、そうだ。高知に行きたいなあ。釣りがしたいなあ。そう思った。
 医者になってからというもの、あんまり忙しくて何年も高知に帰ることができなかった。祖父は僕が医院を継いでくれればいいと思っていたに違いないが、大学で忙しく働いている様子を伝え聞き、「末は教授かのう」と笑っていたそうだ。本当は自分がそうなりたかったのだ。後に認知症が進行してから、ときどきせん妄患者独特の光る眼をして、「背広を出してくれ。今日は大学で講義だ」と、周囲を困らせたそうだ。祖父は、医院を継いでもらう話をぱったりとしなくなった。祖母がその話をしても口をつぐむようになったらしい。結局僕は医院を継がなかった。祖父は認知症が進行して医院を閉じることになり、介護に便利な高知市内に引っ越すことになった。僕はせめてもの罪滅ぼしに高知に出向き、患者を他院に引き継ぐための紹介状を書いた。クレゾールのにおいのする古びた木造の診察室で紹介状を書いていると、「ああ、ここがあの人の戦場だったのだ。」と、胸がいっぱいになった。
 祖父が亡くなる少し前に、両親やおばに頼んで、昔の家をきれいに掃除してもらった。少しでも祖父に見せてやりたかったのだ。荒れ放題だったのがだいぶましになった頃、僕も手伝いに行った。数日前に「もう昔とは全然違う」と母に告げられていた僕は、「誰も住んでいない家は荒れるものだ」と、漠然とした覚悟を決めていた。
 中に入ってみると、確かに埃だらけだった。祖父が使っていた庭のゴルフ練習台には厚くカビが生えていた。でも、そこにはわずかになったとはいえ、懐かしいクレゾールのにおいがした。古い木造家屋のにおいとないまぜになったそれが分かった途端、怒濤のように思い出が溢れた。耐えられなくなって、黙ってあの細い路地にでた。よく晴れて、あの白い景色がひろがっていた。「変わらないじゃないか、なんにも変わらないじゃないか」とつぶやきながら、いくらでも出てくる涙を抑えることができなくなってしまった。家の中に入った僕は、父や妻に見られないように下を向き、糞意地になって床を拭いた。
 きれいになった昔の家に行ったとき、祖父は上機嫌だったそうだ。それから間もなく祖父は亡くなった。葬式のために高知に行った僕は、昔の家で枯木のようになって眠っている祖父を見た途端、自分でもおかしい位に取り乱して泣きじゃくった。この人が医者である自分の初めての師であったことを、今さらながら知った。祖父の姿を見て、わずか2歳の息子が「ひいおじいちゃんはどうしたの?」と訊いた。亡くなったのだと教えると、「つかれちゃったんだね」と言った。そうだ、疲れたんだ、いつか自分もそうなるだろう、そうなりたいと思った。