すっかり更新していないこの日記、誰が見てくれているのか全く知らないが、たまに更新してみよう。
最近、精神神経科領域の知識にハマってます。
お前が精神神経科領域の患者だろって、まあ、その通りなんですが。
膠原病を専門に扱っていると、若い患者さんが多いですから、経過中に統合失調症を発症したりすることもあります。時々ですけどね。
僕の仕事上のポリシーは、「リウマチ・膠原病内科は、リウマチ・膠原病疾患をもっている患者さんのためのかかりつけ医である。」ですから、自分の外来に通院中の患者さん、もっといえばリウマチ・膠原病疾患をもっている患者さんであれば、骨折であろうが精神疾患であろうが、まずは相談に乗り、とりあえずの手をうって、さらに必要であれば専門家に紹介するようにしています。しかし精神疾患の場合、患者さんが「精神科には絶対かからない」と、断固として専門家への紹介を拒否することがあります。
だからといって、本人は多いに苦しんでいるわけで、放ってはおけない。こちらとしては何とかしなくちゃいけないわけです。「私の専門外ですので知りません。」というのは簡単ですが、実際に患者さんが「先生に診てもらいたい」と一歩も引かないことは珍しくないのです。
ですので、例によって躁病モードの時期を利用して、精神医学の勉強をもの凄い勢いでやりました。なんといっても自分も患者ですから、「ああ、そうそう。これって分かるなー。」と感じることだらけです。そんなヤツが医者やって平気なのか?と思うかもしれませんが、精神疾患の患者さんは、治療によって日常生活に不便がないような状態まで改善していても、「自分は何者なのか?何故これほど苦労するのか?」と、多少なりとも内省的になります。異常精神体験に対する感度がエラく鋭くなっているのです。僕にとって双極性障害なんて、殆ど自分の体験そのものですから、すぐに理解できちゃう。薬の効き具合の細かい感触なんて、そこいらの精神科の先生よりも細かく理解できます。自分に起きていることですから。
僕の患者さんに精神的問題をもっている人は珍しくも何ともない。膠原病ってそういうものです。重大な病気ですから、苦悩は深くても驚くにはあたらない。その人達相手に、慎重に慎重に、少しずつ、得た知識を生かして話を聴いてみるように心がけました。そうすると、多くの人は喜んで話し始めます。「ああ、みんな自分の苦悩を聴いてほしかったんだ」と痛感しました。実際、精神科的薬物療法を試みても、とても喜んでもらえますし、身体疾患の調子が良くなることもあります。
精神疾患の患者さんと面接する時、一番重要なのが、患者さんの精神風景に「つかず離れず、そっと寄り添う」だと感じました。そうすると、患者さんは切々と自分の住んでいる精神風景について話し始めます。ある時は直接的に、ある時は現実世界の何者かを介して、間接的に。
それはなんだか、深い霧の向こうに、その人の住んでいる世界がうっすらと見えるような感触です。患者さんがその世界に、僕の中の一部分、それはおそらく医師としての冷静な部分を、招待してくれているように感じます。苦しく、不気味な世界だったりもするわけですが。そして、完全には霧は晴れない。全ては見えない。でも、すっかり霧が晴れて、分かったような気になる必要はない。分かったような気になる方がよろしくない。「どうもよくわからない。でもこんな感じだろうか?」と患者さんと相談しながら、コツコツと解けない知恵の輪に取り組んでいるような感じ。
時間には限りがありますから、長い時間を割けるわけではありません。でも、たとえ短時間であっても、患者さんが案内してくれるあとをついていくと、その人の精神世界の奥を十分に探索でき、対策も相談できます。逆に、覗き見ようとしたり、暴こうとしたりすると、ろくなことは起こらない。
今回の躁病モードは、えらく役に立ちました。
最近、精神神経科領域の知識にハマってます。
お前が精神神経科領域の患者だろって、まあ、その通りなんですが。
膠原病を専門に扱っていると、若い患者さんが多いですから、経過中に統合失調症を発症したりすることもあります。時々ですけどね。
僕の仕事上のポリシーは、「リウマチ・膠原病内科は、リウマチ・膠原病疾患をもっている患者さんのためのかかりつけ医である。」ですから、自分の外来に通院中の患者さん、もっといえばリウマチ・膠原病疾患をもっている患者さんであれば、骨折であろうが精神疾患であろうが、まずは相談に乗り、とりあえずの手をうって、さらに必要であれば専門家に紹介するようにしています。しかし精神疾患の場合、患者さんが「精神科には絶対かからない」と、断固として専門家への紹介を拒否することがあります。
だからといって、本人は多いに苦しんでいるわけで、放ってはおけない。こちらとしては何とかしなくちゃいけないわけです。「私の専門外ですので知りません。」というのは簡単ですが、実際に患者さんが「先生に診てもらいたい」と一歩も引かないことは珍しくないのです。
ですので、例によって躁病モードの時期を利用して、精神医学の勉強をもの凄い勢いでやりました。なんといっても自分も患者ですから、「ああ、そうそう。これって分かるなー。」と感じることだらけです。そんなヤツが医者やって平気なのか?と思うかもしれませんが、精神疾患の患者さんは、治療によって日常生活に不便がないような状態まで改善していても、「自分は何者なのか?何故これほど苦労するのか?」と、多少なりとも内省的になります。異常精神体験に対する感度がエラく鋭くなっているのです。僕にとって双極性障害なんて、殆ど自分の体験そのものですから、すぐに理解できちゃう。薬の効き具合の細かい感触なんて、そこいらの精神科の先生よりも細かく理解できます。自分に起きていることですから。
僕の患者さんに精神的問題をもっている人は珍しくも何ともない。膠原病ってそういうものです。重大な病気ですから、苦悩は深くても驚くにはあたらない。その人達相手に、慎重に慎重に、少しずつ、得た知識を生かして話を聴いてみるように心がけました。そうすると、多くの人は喜んで話し始めます。「ああ、みんな自分の苦悩を聴いてほしかったんだ」と痛感しました。実際、精神科的薬物療法を試みても、とても喜んでもらえますし、身体疾患の調子が良くなることもあります。
精神疾患の患者さんと面接する時、一番重要なのが、患者さんの精神風景に「つかず離れず、そっと寄り添う」だと感じました。そうすると、患者さんは切々と自分の住んでいる精神風景について話し始めます。ある時は直接的に、ある時は現実世界の何者かを介して、間接的に。
それはなんだか、深い霧の向こうに、その人の住んでいる世界がうっすらと見えるような感触です。患者さんがその世界に、僕の中の一部分、それはおそらく医師としての冷静な部分を、招待してくれているように感じます。苦しく、不気味な世界だったりもするわけですが。そして、完全には霧は晴れない。全ては見えない。でも、すっかり霧が晴れて、分かったような気になる必要はない。分かったような気になる方がよろしくない。「どうもよくわからない。でもこんな感じだろうか?」と患者さんと相談しながら、コツコツと解けない知恵の輪に取り組んでいるような感じ。
時間には限りがありますから、長い時間を割けるわけではありません。でも、たとえ短時間であっても、患者さんが案内してくれるあとをついていくと、その人の精神世界の奥を十分に探索でき、対策も相談できます。逆に、覗き見ようとしたり、暴こうとしたりすると、ろくなことは起こらない。
今回の躁病モードは、えらく役に立ちました。