(AMDAネパールこども病院設立への関わりについてのお話の始まりです。阪神淡路大震災からまもなく3年を迎えようとしていた、1997年年末の事・・・・・)
こども病院には、忘年会がたくさんある。
病棟は、新生児病棟・幼児病棟・混合病棟・学童病棟にわかれ、また、外来・手術場・ICU・医局と、それぞれの忘年会がある。時期が来ると、それぞれの部署のリクレーション担当から、医師たちに忘年会参加のお誘いがある。
運が良いのか、はたまた悪いのか、脳外科はすべてに関係していた。また、ある忘年会にだけ出席して、他のある忘年会に出ないでは、人間関係にヒビが入る可能性がある。どうしよう。
じゃあ、全部にでてしまおう!とのことで、12月は肝臓がアルコールづけとなった。γーGTPは、過去最高を記録した。付き合いは、昔から最高に良いからね。
その中の一つ、医局での忘年会だったと思う。小児外科部長のM先生(後のAMDA兵庫代表)が、隣に座れと促す。まあ、誰とでも仲良しだったから、気持ちよくそれに応じた。その時は、何か意図があるとは思わなかった。
でも、やたらとお酒をついでくる。女性に酔わされるのならまだうれしいが、中年のおっさん(失礼)が酔わそうとするのは何かあるのか?そんな勘ぐりが出来るほど、僕は疑り深くなかった。アルコール血中濃度が徐々に上がっていった。
すると、やたらと僕のボランティアの話を、根掘り葉堀り聞き出そうとする。だから、大学の時の、部活動の無医村・知的障害者施設での検診、身体障害者の自立支援とハワイへ担いで行った事などの話をした。
そんな、人のボランティアの話なんか聞いて、そんなにおもしろいかなあって思ってたら、M先生は、少年のように眼をキラキラ輝かせてこう言った。
「じゃあ、今度は一緒にネパールにこども病院をつくろう!君ならできる、手伝ってくれないか!」
このおっさん、いきなり何を言い出すかぁ!ってしらふなら思ったかも知れないが、アルコール血中濃度が十分上がっていた僕は、調子に乗って、「よっしゃ、つくりましょう!手伝いますよ!」って。それが、その後の僕の人生を大きく変えることになるとは、全く、全然、これっぽっちも思ってなかった。
今日の写真!(1000人目のベビー!)
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