恒生病院での多忙な当直を終え、震災後初めての夜が明けた。北区は比較的被害が少なかったので、電気、電話は通じた。テレビからの情報により、徐々に被害の様子が明らかになって行った。


神戸大学医学部に連絡するも、電話は通じない。無事を伝えるためには自分で大学に行く以外になかったが、その日も神戸の中央区で当直だった。


O先生とK院長先生は本当に良くして下さった。翌朝、車のガソリンの手配とともに、事務の人が六甲トンネルの出口まで送ってくれた。そこからは下りなので何とかなる。またマウンテンバイクにまたがり、激震地を目指した。


片手には、ポリタンクに入った10リッターのガソリン。そのスタイルでまずは新神戸の自宅を目指した。


途中、灘区のガス漏れ地帯、火事多発地帯を通っていったが、今考えると、よくまあガソリンに引火しなかったものだ。


自宅に帰り、ガソリンを自分の車に入れ、少し仮眠の後、自転車で中央区の当直先へ。


そこでも不眠不休で働いた。言葉には言い表せない惨状だった。何もしてあげられない患者様が大勢いた。医師として、非常に悲しく、自分に腹立たしい状況だった。自然現象の前では、人の力は無力だと感じた。しかし、ここでは多くを語るまい。


けれど、3日目になると、全国から医師、看護師が駆け付けてくれた。震災から学んだのは、災害医療は最初の3日が肝心だ。とにかく最初3日間を耐えしのげば、後は助けが来てくれる。


震災後、3日連続の当直を終えた後、自宅に帰った。大学には未だ連絡がつかない。


後で聞いた話によると、2日目の時点で、僕は行方不明者リストに入っていたそうだ。さらに3日目ともなると、死んでしまったのかも知れないということになっていたらしい。実際、大学病院関連では、当直先などで二人の医師が亡くなられた。


そんなこととはつゆ知らず、今後のことを自宅で考えていた。とにかく人心地をつけないと。このままでは衛生状態が悪く、体調を崩してしまう。北区以北は被害が少なそうだ。じゃあ、車で新神戸トンネル を抜けて市立西脇病院に行くか。


幸い、新神戸トンネルは無傷な上に、全く渋滞が無かった。新神戸トンネルを抜け、下道を通って市立西脇病院に着いた。


そこで、K先生にあった。西脇病院には、僕が死んでしまったかも知れないという情報が廻って来ていたらしい。僕の顔を見るなりK先生が涙を流して喜んでくれたのを覚えている。「先生、生きとったんかあ!心配したぞ!」


(この時、西脇病院で開頭手術を執刀し、その手術をした方からこのブログにメッセージがあったのでした。人の縁とは不思議なものです。)


こうして、激動の震災3日間が終わった。その後は、大学の指示に従って、大学の救急部、雪御所救護所などで働いたが、最初の3日間が今でも一番印象に残っている。




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