・・・・阪神淡路大震災。被災された方は、それぞれにそれぞれの震災体験があると思います。12年たっても未だ癒されずに、思い出したくないと思われる方もあると思います。ただ、AMDAネパールこども病院の設立経緯、僕の思いをつづるためには避けて通れない部分なので、淡々と当時を振り返ってみたいと思います。お許し下さい・・・・・・
1995年1月17日。当時医学部大学院生だった僕は、いつものように前日月曜日の晩から当直をしていた。予定では、16日、17日、18日と3日連続の当直。定期の月、水の当直に、後輩から頼まれた火曜臨時当直が入っていた。
その朝は、明石の民間病院で当直をしていた。そろそろ大学に帰ろうと、うとうとしていたその時、初期微動を感じた。地震と思い、ベットに座った瞬間、ものすごい縦、横の揺れを感じ、メトロノームの最大幅のように体が揺れた。言葉を失うほどの揺れだったが、最初に発した言葉を今でも覚えている。「こんなに揺れることもあるねんなぁ!」
もちろん停電したが、非常用の電源に切り替わったためか、薄暗い明かりがついていた。周りを見渡すと、隣の医局は、医学書をたくさん入れた本棚が折り重なるように倒れていた。この中に居たらもしかしたら・・・。上を見たら、天井が落ちかけていて、間仕切りが斜めになっていた。助かったようだ。
すぐ白衣に着替え、病棟へ。人工呼吸をしていた人は幸いいなかった。持続用の点滴は手動に切り替えた。あたりは、カルテ、注射その他が散乱していた。院内で数人ケガをした人がいたので手当を開始した。医者はもちろん僕一人だった。何とか常勤の医師が来るまで踏ん張らないと。
まだ夜明け前だったので、明かりは非常灯の薄暗い光のみ。一番物が散乱していなかった廊下の薄暗い光の下に、にわか仕立てで診察場所を確保した。消毒、外科処置の連続。
暫くして入院患者様で怪我をされた人の外科処置が落ち着いた頃、外来から連絡。「大勢の方が救急外来に来ています。」と。外来に降りると、怪我をされた人たちが大勢駆け付け、さらに増える勢いだった。
まず、声をかけた。「僕は脳外科医です。ここに歩いて来れた皆さんは命に別状はないですから落ち着いて。重傷の方はいませんか。」すると、外来受診者のうちの数人がリーダーになってくれた。「このこどもから診てやって。このおばあちゃん診てやって。」誰一人として、我先にという人はいなかった。有事の時の結束の姿から、人間の強さを感じた。
さらに消毒、外科処置の連続。そのうち、非常電源のバッテリー切れのためか、明かりが暗くなってきた。それで、新たに、ナースステーションの窓際、散乱しているカルテや物品をのけて、朝日の元で診察台を作り、診療再開。またさらに、消毒、外科手術。百数十人を診たと思う。
落ち着きかけた頃、常勤の医師が神戸から到着した。その医師曰く、「交代しよう。神戸はもっとひどいよ。第二神明道路は通れない。大渋滞。」と。
その場を、常勤の医師に任せて、車に乗り込み神戸に向けて出発した。(つづく)
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