西脇市立西脇病院 。それは当時、神戸大学脳神経外科教室 の関連病院の中で、大学病院その他公立病院すべてを抑えて、最も手術件数が多い病院で、当時年間400件もの脳外科手術があり、研修医の間では、虎の穴として恐れられていた病院だった。脅す先輩からは、「死ぬなよ」と言われた。
西脇病院には、同門会からスーパーマンもしくは鉄人と言われていた、現在の西脇病院院長O先生と脳外科部長のK先生がいた。O先生は血管吻合手術の権威で、その手術を受けるために多くの患者様が集まり、また救急も半端な数ではなかった。
そこに、二人の研修医が派遣された。今度は、将棋の駒にたとえるなら、「王将、飛車、歩、歩」。
ここでの研修は、人間の能力の限界への挑戦であった。
年間400例の手術といえば、一日1例以上。4人の頭割りでも、1件2人が手術をするとすれば、一人1年で200例という計算となる。また、手術にならない救急の数まで含めると、救急の数は莫大だった。
最初に、歩の二人に話があった。「1stのオンコール(一番最初に呼ばれるポケベル持ち)の担当は、5分以上病院から離れるな。2ndのオンコールは、30分。」
その理由はすぐにわかった。救急のオンコールの回数がひっきりなし。一人では対応しきれなくなると、容赦なく二人目が呼び出される。それでも手が足りなくなったり、手術の必要があれば、K先生が登場する。僕の経験では、救急車が同時に4台並んだことがあった。さらに、K先生の手に負えない超難問症例が来た場合は、O先生も加わり、4人の総力戦となる。
手術も400例がまんべんなく来るわけではない。例えば、くも膜下出血の動脈瘤破裂が来始めると、立て続けに来ることも多かった。
その激しさを物語るエピソードがある。
ある日の仕事をしていた夕方、くも膜下出血が入った。脳血管撮影を行い、手術をしていると脳内出血が入り、夜通し手術をして、そのまま次の日の定期の手術へ。大手術で夕方までかかり、術後管理をしていたら、またくも膜下出血が立て続けに2例。夜通しまた手術。2日徹夜での手術後、日勤の検査、回診をし夕方やっと帰れるかと思えば、またくも膜下出血。約70時間寝ずに働き続けた手術中。体力の限界が来た。助手として顕微鏡をのぞいていたとき、ふっと意識が遠のいた。顕微鏡が眼に当たり、顕微鏡を揺らしてしまった。「揺らすな!」。人間70時間ぐらいが限界のようだ。
ただ二人は、僕ら若き研修医に脳外科医の何たるかを教えてくれた。これができれば、ならば次はこれ、さらに次は・・・と、1年の研修期間中に僕に脳外科手術のすべてを教えてくれた、言うなればお師匠様だった。今こうして脳外科医としていられるのも、この二人の指導があったからこそだと感謝している。
また、二人の歩の助け合いも見事だったので、今でも家族ぐるみでつきあいをしている。いわば、同期の桜、かな。
そして、1年間でぼろぼろになった体力を回復すべく、日本海側の豊岡の民間病院に派遣となった。(つづく)
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