医師になった翌年の1991年4月、静岡県立こども病院 の研修医として赴任となり、本格的に小児脳外科研修が始まった。

  

当時の静岡こども病院は、脳外科医同士の夫婦医師2人の元、1人の研修医が派遣され、診療を行っていた。厳しい2人として有名で、派遣医の中では不人気で、辞めてしまう人も多かった。派遣医の間では、将棋の駒になぞらえて、飛車、角、歩」と言われていた。

  

たしかに、厳しい二人ではあったが、いろいろと教わることが多かった。嫌われると大変らしいが、いろんな意味で結構大事にしてくれた(かな?)。

  

ただ、歩の仕事量は半端ではなかった。こどもの場合は、眠らせて検査をすることが多いので、MRI、脳波など検査ごとに呼ばれた。指示も細かく記載する必要があり、また点滴などの処置も大人に比べ時間を要する。大体、仕事が終わるのは夜半前で、超えることも多い。その後は救急対応のオンコール。しかし、僕は最初の派遣場所だったので、まあこんなもんだろうと思っていた。

  

そんな超ハードなに対して、みんなから同情が集まり、看護師さんや技師さんたちは本当に大事にしてくれた

  

たとえば、こんな事があった。ある脳腫瘍のこどもの手術後、尿崩症といって、一日3000mlから4000ml、多いときは時間に300mlもの尿がでてしまう合併症をきたした。そんなときは、薬で調整すると同時に、点滴の追いかけと言って、30分前にでた尿量分だけ、次の30分で点滴をする必要がある。つまり、30分ごとに点滴速度を変える必要があった。昼間は看護師さんで対応できるが、夜は人手が足りない。

  

そこで、の出番である。夜半前までの仕事後、ストレッチャー(患者様を運ぶ台)をクベース(保育器)のとなりに持ってきて寝て、30分ごとに目覚まし時計をかけ、30分ごとに起き、点滴スピードを変え、また寝る。そして朝が来てまた仕事。そんな日が数日続いた。そんな時、看護師さんがそっと布団をかけ直してくれた。

  

また、こんなこともあった。仕事後、ふらふらしながら帰っていて、足を踏み外して骨折した。右第5中足骨骨折。別名下駄骨折といって、下駄を踏み外したときに多い骨折。整形外科の先生がギブスを巻いてくれた。放射線の技師さんたちは、ちょっとでも休ませてもらうためにと、骨折部位をでっかく拡大したフィルムを作成してくれた。もちろん休みはなく足のギブスを振り回しながら仕事をしていたが、技師さんたちのその気持ちがうれしかった。

  

今思えば、本当に忙しかったこども病院での研修であったが、まわりのみんなが大切にしてくれたおかげで乗り越えることができた。小児脳外科医の基礎はできた。

  

そして半年間の研修後、大人の研修も必要とのことで、兵庫県の真ん中の西脇市立西脇病院 に転勤することとなった。(つづく)

   

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