医学部も高学年となり、何科の医者になるか決める時期が来た。

  

モルモットだった第三内科からも誘いがあったが、僕はどう見ても外科向き。そして、人の命に関わる仕事がしたかったので、救急か脳神経外科、心臓血管外科を考えた。いずれも、昼夜を問わず働かなくてはならない厳しい科だった。どうせだったらと、救急なら大阪千里救急救命センター、心臓血管外科なら東京女子医大が当時日本のトップだったので、候補に挙がった。

  

そうこうしているうちに、自分の進路を決断させる運命的な出があった。ある少年の涙だった。

  

医学部高学年となると、ポリクリといって、いろいろな科で実際に研修をしてまわり、担当の患者様をもち、実地の勉強をする機会をもつ。脳神経外科の実地訓練の時だ。

  

その少年は、悪性の脳腫瘍だった。素直なこどもで何かを悟ったような物静かなこどもだった。その子には病気のことは知らされていない。その子に、主治医が抗ガン剤治療の副作用について説明していた席に同席していた。

  

主治医は病名を出さず、でも抗ガン剤の治療の必要性や副作用の症状についてわかりやすく説明した。その少年は、病名を知らされていなかったが、今までの経緯で自分の運命を悟っていたのではないかと思う。静かにその話をきいていたその時であった。

  

しっかりと見開いたその少年の眼から、声もあげず、ぽたぽたと涙のしずくがこぼれ落ちた。

  

その光景が今でも目に焼き付いている。何とも悲しい、切ない泣き方だった。

  

熱いものがこみ上げてきた。こどもの脳の病気をなおすために、小児脳神経外科医になろう。」と決心した瞬間だった。