中学生からの間借りでの下宿生活。何とか栄養失調になることもなく、またもともと体力には自身があったので元気に過ごしたが、テレビもなく、あるのはラジカセだけで、暇な時間は勉強するしかなかった。こうした世間とは情報隔離されたような仙人生活、そうこうしているうちに、入学時は180人中160番だった成績は卒業時には10番前後に上がり、徳島市立高校の理数科に進学することになった。

  

この理数科は、公立でありながら、徳島の精鋭40人を集めたクラスで、クラスで30位ぐらいに入っていれば、国立の医学部に入れるというちょっと変わったクラス。でも最初は40人中35番ぐらいと、いつも努力しないと行けないのは僕の定めだったのだろう。高校でもこつこつ努力を重ねて勉学に励んだ。

  

しかし、世の中には天才といわれる能力をもった人間がいることを体感した。僕のような、生まれつき能力のない人間がいくら努力しても追いつけない人たちがいることがよくわかった。1から10を学び大学レベルの難問をすんなり解いてしまう人。500点満点で500点を取る人。自分がどんなに努力して前進しても、そのずっと先をもっと速く進歩していく人たち。どんなに頑張っても15番ぐらいが限度だった。そんな天才の同級生は、京大の医学部へ4人、慶応の医学部へ1人、東大へ数人と進学していった。徳島大学の医学部には20人ぐらいが進学した。

  

しかし、医者をめざす僕にとって、問題は別のところにあった。親父が医師になることに反対し始めたのだった。親父は、「おまえは手先が器用だから、歯医者になれ!」と言い出した。

  

言い出したら聞かない親父と、その血を受け継いだ僕。家では大激論となった。その頃の僕にとっては、歯医者は人の運命を変えるような、★を動かすような仕事ではない。だから絶対受け入れられない事だった。

それで、僕は「共通一次試験で(当時は共通一次と呼ばれ1000点満点だった)860点とれば医学部を受けさせて欲しい。」と嘆願した。一時は引き下がった親父だったが、僕が864点をとるとまた大反対し始めた。仕送りを一切しない。」とまで言い出した。

  

争いの舞台は、担任の先生との三者面談にまで持ち込まれた。医学部に行きたいという僕と、歯学部にしか行かせないという親父。

  

その時、高校の担任の先生は、医学部の話しかしなかった。医学部に入れますから、是非受けさせてあげて欲しい」と。今思い出しても、涙が出るほどその気持ちがうれしかった。

  

でも今から考えれば親父は、言い出したら聞かない僕の性格を見越してわざと反対したのではないか、と思っている。反対されたらよけいに燃え上がって勉強してたから。うまく踊らされたのではないかなあ。

  

で、なんとか徳島大学の医学部に合格したが、親父の言葉通り、仕送りはなかった。そこから、壮絶な医学部バイト自活生活が始まった。