準備会では、篠原明先生という、病院設立に余命をかけて臨んだ医師の思いを知った。


篠原医師は、93年4月から6月まで、AMDAネパールのブータン難民救済第2次医療センターにて診療活動をされたそうだ。現地の悲惨な状況にふれ、貧困に苦しみ、病気と闘う難民、多くのこどもたちをみて、そんなこどもたちを何とか救いたいと思った。


帰国後、彼はラメシュワール・ポカレル医師と出会った。ポカレル医師は、ネパールから神戸大学に留学し、兵庫県立こども病院にて研修医として実習に来ていた医師だった。ポカレル医師から、ネパールのこどもたちの窮状を聞き、またこども病院の構想を聞いて、その実現に向けて活動を開始した。


しかし、94年に悪性リンパ腫を発病し入院。入院中も彼は病室に電話を置き、病魔と闘いながら病院設立の準備を続けた。


一旦回復に向かい退院後も、我が身を省みず各方面に働きかけを行ったそうだ。阪神大震災後、毎日新聞社の「飢餓・貧困・難民救済キャンペーン」企画の一環で、「明日を行きたいーヒマラヤの麓から」というキャンペーンによりポカレル医師と篠原医師の夢と努力が取り上げられ、ネパールこども病院の構想が具体化した。


彼のネパールの地での夢が叶うかに見えたその矢先、96年8月に3度目の入院。懸命な治療もむなしく、11月21日、帰らぬ人となってしまった。


彼の最期までネパールこども病院設立に献身したその姿を見て、彼を慕う多くの友人たちが、母・奈美枝さんの元を訪ねた。奈美枝さんは、彼の遺志を引き継ぎたいという思いで募金活動を行い、また自らの私財を寄付して、97年3月までに300万円を越える浄財をAMDAに寄付された。


AMDAでは、彼の遺志を尊重し、その資金を元に「篠原基金」を設立。この基金は、ネパールの貧しい若者の中から医療従事者を目指す者に与えられる奨学金として活用されることとなった。


この基金の事を知った彼の恩師や同窓生が基金に参加を希望。集まったお金は200万円近くに及んだ。


彼の思い描いた夢は、みんなのこころを引きつけ、いまでもこころの中に受け継がれている。そんな気持ちが篠原記念小児病棟の建設に向かうのは、ここから数年先の話になるが、病棟には彼の遺影とともにその功績が刻まれ、ネパールのスタッフたちのこころの支えとなっている。


今日の写真!「篠原記念小児病棟」

篠原記念小児病棟