仕送り無しで医学部生活を乗り切るのは、今から思えば大変だったが、結構楽しくやっていた。むかしから、逆境の方がよけいに楽しいみたいな生き方だったから。
中学、高校と我慢してた分、大学生活は楽しくいこうと考えていた。そのためには資金がいる。だから、バイト、バイトに明け暮れる一方、趣味や遊びの時間もとっていたので、超ハードなスケジュールになった。
僕の大学バイトは、多岐にわたっていた。とにかく、最初は何でもやってみた。
まずは、阿波の狸まつりのたぬきのマスコットに入るバイト。1日5000円なり。これは、暑くって、汗くさくって、たまらなかった。
夜、道路の舗装をするバイト。一晩1万円なり。僕がつくったという道路ができた。でも、これも次の日の授業に差し支えた。
あと、大きな裁判の時のマスコミ用の整理券取り。いくらだったか忘れたが、抽選で当たるとバイト料が高かった。ちなみにはずれた。
あとは、医学部生の特殊バイト。骨髄や血液を提供したり、検査の実験台になったり。これは、良い臨時収入となった。(また後日じっくりと。)
いろいろやってみたが、結局、家庭教師が一番わりがよかったので、途中からは家庭教師一本で行った。
こどもが好きで、また教えることは楽しかった。また、勉強を頑張れば、美味しいケーキを食べに連れて行ったり、遊びに行ったりと、兄貴感覚でやっていたので、こどもたちも一生懸命勉強してくれた。だから何人かは、今でも手紙がきたり、神戸に遊びに来たりしている。
最初は週に2,3日だったが、受け持ったこどもたちが、ぐんぐん成績が伸びたので、口コミでどんどん頼まれ、多いときは週に8軒も回っていた。つまり、ダブルヘッターの日が週に2,3日あった。ちなみに、僕が受け持ったこどもたちは、みんな志望校に合格し、誰一人も不合格にならなかった。
今から思えば、この家庭教師の日々が、医師としてのムンテラ(病状を説明すること)の訓練になった。どうすれば納得してもらえるか、口べたな僕が説明上手になったような気がする。だから、仕送りなしも考えようによっては悪くないんだろうね。
ただ、バイトに追われる人生はいやだったので、さらに週2回極真空手の長谷川道場に通い、月2回は身体障害に負けずに自活している人(徳島の身障者の会の副会長だった人)の夜の世話係のボランティアをし、またユーロビート全盛時代は、ディスコに通っていた。
そして、留年することなく医学部生活も高学年を迎え、何科に進むか進路を決める時期が近づいてきた。