家庭に帰る教育
近年の日本では、少年犯罪や非行が起きるたびに、
その原因を「学校教育の失敗」ではなく「家庭教育の欠如」に求める声が高まっている。
箸の持ち方がぎこちなかったり、挨拶ができない若者を見て、
「最近の親は何も教えない」と嘆く大人たちの声も少なくない。
けれど、少し視点を変えてみれば、
その親たちもまた、毎日を懸命に生き抜いている人たちである。
遅い時間に疲れた体で帰宅し、
子どもの話に耳を傾ける余裕が、果たしてどれほど残っているだろうか。
「家庭教育の欠如」とは、意志の問題ではなく、
おそらくは時間と心の余裕を失った社会の姿なのかもしれない。
戦後の急速な経済成長は、日本の家族のかたちを根底から変えてしまった。
親は家よりも職場にいる時間が長くなり、
子どもたちはテレビやインターネットの中で一人育っていった。
その間に、「一緒に食卓を囲む時間」や「小さな会話の積み重ね」は
静かに日常からこぼれ落ちていった。
いま日本社会が「家庭教育の再生」を語るのは、
ただ礼儀や作法を取り戻そうという意味ではない。
家族が共に笑い、同じ食卓を囲む時間の中に、
私たちが忘れてしまった人間らしいぬくもりを取り戻したいという願いがあるのだろう。
けれど、この問題は日本だけのものではない。
韓国社会もまた、長い競争の時代を経て、
親と子、家族と隣人の距離が少しずつ離れていった。
「愛するために働く」と言いながら、
私たちはいつの間にか、もっと大切な何かを失ってしまったのかもしれない。
本当の教育は、教科書の中にあるのではない。
それは、日々の食卓の上、
笑い合い、語り合うひとときの中に息づいている。
子どもは親の言葉よりも、
その背中ににじむ生き方を見て育つ。
結局、私たちが問い直すべきなのは、
「何を教えたか」ではなく、
「何を共に分かち合ったか」だろう。
家庭がもう一度、人の心を温める場所になるとき、
社会もまた、少し穏やかな顔を取り戻すに違いない。
まずは、Family の根幹である、Father and Mother I Love You, から始めよう。