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「宇宙開拓使」のコーヤコーヤ星のモデルが北海道ではないかということをお伝えしましたが、まさしく開拓=北海道の歴史といえます。

さて、かねてから北海道が大好きであった筆者は、北海道に関するさまざまな文献を読みました。

その中でも、小説家の吉村昭先生の作品には、北海道に関連するものが多く、そのほぼすべてを読みました。北海道関連の吉村作品の中でも、最高峰というべきなのが「羆嵐」なのです。(他にも、開拓初期に囚人を労働力として送り込んだ記録である「赤い人」も名作です。)

これは現在の北海道苫前町の集落に巨大な熊が襲い掛かり、住民を次々と殺害する中で、荒くれ者の熊撃ち名人によって、ようやく仕留められるというものです。北海道の原野、そしてそこに住む動物たちの中に入っていた、開拓民の苦労がよく表れている事件です。

この「羆嵐」は、単に北海道開拓の歴史の一場面を克明に記録したというだけではなく、小説としても、さまざまな読み方ができる、実に素晴らしいものなのです。以下、昨年、再読した際の、自分なりの感想です。

なお、この小説をもとにして、テレビドラマ化されたようで(「羆嵐」(三國連太郎主演))、現在、このダイジェスト版を苫前町郷土資料館で観ることができます。これも素晴らしい作品ですが、「DVDは販売していない」とのことです。

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吉村昭「羆嵐」を再読した。

もちろんのこと以前読んで内容は把握していたのであるが、やはり恐るべき作品である。

事件が事件だけに、鬼気迫るものがあるが、改めて読み直してみると、様々な論点が存在しているといえる。

当然ながら、北海道の開拓史の鮮明な記憶ということだろう。「熊」の問題だけではなく、この地に入植した背景も記されている。

事件のあった六線沢の入植者は後発組であり、その土地は痩せていた。一方先発組のより低地の者たちは土地が肥沃で、余剰の農産物もあり、それを売却して現金収入を得ることができた。

事件があったのち、低地の者も討伐隊として駆けつけるのであるが、身に着けている衣服が六線沢の者たちよりも明らかにいいものであることが描かれている。距離的には両者の間はさしたるものはないが、そもそもの土地の違いなのか、入植した時間の違いなのか、明確な生活水準の差が描写されていた。

さらには、沿岸部の漁民は江戸時代末期からの入植者であり、彼らは内陸部のこうした農民をよそ者扱いしているという。漁民はニシン漁で栄えている描写があり、入植時期と、どこに入植したのかによって決定的な違いが出ているようだ。

また、これも当然ながら輸送手段が現在とは圧倒的に劣っているということだ。鉄道は留萌までしかなく、事件を知らせるためには、苫前まで徒歩で行かなければならなかったこと。徒歩が主流であったのが、道内に鉄道網が広がったものの、その後は道路が整備されたために、鉄道が次々と廃止されていった。その間の移動の速度の向上は恐るべきものがある。

近代に入って、そして現代まで飛躍的に向上したものは「移動」と「情報」ではなかろうか。

移動については、徒歩、船、鉄道、そして航空機となった。LCCの出現で航空運賃の価格破壊が進んだ。情報ということでインターネットは言うまでもなく、スマホの開発によって、情報の拡散、伝達の速度は、この当時とは文字通り比較にはならない。

これは人類が「移動したい」「情報が欲しい」という根源的な欲求を持っているために、進歩が進んできたのだろうか。

そして、今回読了した上での最大の論点は、個人と集団である。

銀四朗という熊撃ちのプロが登場し、それが見事仕留める。

当初は警察の分署長が地元住民を組織し、討伐隊を編成するも、銃は不発、熊の存在の前に、住民は恐れおののき、何の役にも立たない。

本作では半ば主人公ともいえる「区長」が登場するが、その心境として「集団に絶望」という描写があった。そして「集団」は集まった人数以上の威力を発揮することがあるものの、はるかにその数以下になることもある、今回は後者だ、という描写もあった。

千田琢哉も「孤高」であることの重要性を説くが、まさに本作でも、孤高の銀四朗の前には分署長以下の住民たちは烏合の衆にすぎなかった。圧倒的力を持った個人がいとも簡単に集団を凌駕することが示されている。また銀四朗が落ち着き払って淡々と仕留める場面が描写されている。まさに当時のゴルゴ13であったといえるだろう。

銀四朗は酒を飲む暴れ者であったものの、熊撃ちに登場した際には紳士的に振る舞い、最後には仕留めるが、それはまさに仕事を行うモードなのであろう。仕留めた後は、また乱暴者に戻っている。特殊技能を備えたものは、やはり一般のものとは大きく違うのか。

あと、「区長」という人物の存在も重要だろう。実際にこの区長が平穏時に地域の中でどの程度の権限が与えられていたのかはよく分からないが、住民に対して的確な指示を発していたといえる。集団の無力さを察知し、銀四朗への依頼者を派遣したのも、この区長の判断である。分署長からは自らの指揮下であるにもかかわらず、勝手な判断としたと叱責されている。この当時の警察は現在とは比較にならないほどの権力と権威を持っていたと思われるが、それに反してでも銀四朗を呼び寄せようとしたという判断力を持っていた。また、銀四朗を呼ぶために50円を差し出し、最後に報酬を支払う場面で、銀四朗が「足りない」というと即座に追加の10円を差し出している。

分署長以下の住民が無力であることを認識した以上、地域を放棄させられる状況に追い込まれないための使命感であったといえるが、こうした非常時に、的確な判断を下すことができるかどうかは、自分自身自信がない。

他の作品でもそうだが、「こうした状況であれば自分ならどう考え、どう動くか」ということを考える。

恐怖の感情をなるべく抑止し、混乱することなく、客観的に状況を把握し、的確な判断ができるかどうか……

いずれにせよ本作での区長は、他の住民には見られない的確な判断と行動をしたといえるのではないか(もちろん、物語上、こうした人物をあえて設定したのかもしれないが)。

本作は単に熊害事件の記録というだけではなく、さまざまな論点への広がりを持ったものといえる。淡々とした歴史的記録を、こうしたものに転換できるというのは、まさに著者の素晴らしい技量によるものであろう。

やはり恐るべき作品である。