こんばんは
油木田です!
今日は僕の気持ちです。
スルーして頂いてかまいません。
長くなると思います。
今日は朝から事務所に打ち合わせにいきました。
とてもとてもとても
つらく、厳しく、悔しい決断を強いられました。
マネージャーの方々と
2時間ほど話して
色々な関係で仕事を取捨選択しなくては
ならない状況でした。
今日出した答えが
正解か不正解かなんて
どうでもいいし、
どういう状況になっても
必ず這い上がります。
ずっとそうして
下の下のほんとの下の
底辺の底辺から
ここまでとてつもなく地道な
道を一歩づつすすんできました。
たくさんのことを思い出しました。
上京して身寄りもなく
16才でなにもわからず
誰もが教えてくれず
人には言えないほどきつかった。
そこからはレッスンに通って
2年ほどは仕事ありませんでした。
その間にも東京に来たんだからと
二年間一度も休まずに
毎日10キロ走って
体作りをしたり
すこしでも自分を磨ければと
妥協せずにずっとやってきて
馬鹿にもされることもあったし、
努力を無駄だと否定されたりもしました。
でも絶対に上に行くんだと。
歯を食いしばって、
夜飯もぬいて
とことん痩せたり
バイトもかけもちで一日中働いて
走る時間も飯の時間もあるので
りんごを齧りながら走ったり
バナナを食べながら走って
それを指さされて笑われて
泣きながら走って
雪が降った日も雨が降った日も台風の日も
お正月もクリスマスも
自分の決めたことを絶対曲げないと
自分にだけは負けないと死ぬ気でやってきました。
疲労がたまって
胃を悪くし、吐血したこともありました。
それでも誰にも負けたくなかったから
夢を叶えたいし見たかったから
やってこれました。
そこから、舞台の裏方をずっとやりました。
客席を掃除して作って
ゆびがボロボロになるほど
チラシの折り込みをして
お客さんを案内して
チケットをもぎって
お弁当を運んで
みんなが帰ったら掃除して、
次の日も誰より早く劇場入りして。
ここで、ここから
這い上がっていくんだと。
夢があったから、絶対に負けないと
誰よりも働こうと思いました。
初めて、前説を任されたときは
緊張したけど、すこし認められた気がして
とても嬉しかった。
その歳初めて舞台に立って
演技の魅力にどっぷり浸かりました。
それまでは、なにを頑張ればいいかわからず
闇雲にきついことばかりを選択するような人生でした。
自分の夢や目標も膨らみ、
そのためにやるべきことが明確にみえてきました。
そこから、多数の舞台にたってたくさんの経験を積ませていただいて、
ほんの脇役から続けて
少しづつ周りの人に評価されて
楽しくて楽しくてしょうがなかった。
演技の思考が大きく変わったは
劇団6番シードさんに出演してからで
演出の松本さん含めて劇団員の方
客演の方。
実力もあり、人格者ばかりでした。
そこで大きく演技について考え方が変わり
見た目なんかよりも
技術なんかより演技を磨くには心だと。
そう思って、精神的な面を鍛え磨くことに執着するようになりました。
何度も6番シードさんにはお世話になって
お陰で、僕の舞台での立ち位置も変化して
最初に裏方をやっていた、
大塚の萬劇場で主演が決まった時は
心が震えました。
気付くと周りには応援してくれる方、
同志。
そんな方々が僕を支えて、
切磋琢磨できる仲間もできました。
そんな舞台も22歳のとき
わがままを言って一区切りつけることにしました。
難しい決断でした。
とても悩み考え出しました。
舞台は大好きです。
板の上が芝居ののすべてだと、今でも思います。
それでも、映像の仕事をやりたい。
そして映画が好きで好きでたまらなかった。
年間300本は当たり前のようにみてたし
みた映画をノートにまとめて
自分なりに研究を重ねてました。
それと同時に精神面を完璧にコントロールできるように、強くするために
自らに枷を与えて、
自分ルールを決めて
出来なかったことやれなかったこと
守れなかったならば、役者をやめると。
それから、
毎朝6時に必ず神社に参拝して
それを一年続けれなければ辞める。
炭水化物を取ったら辞める。
お菓子食べたら辞める。
一日一本映画を観なければ辞める。
トイレ掃除を毎日しなければ辞める。
数え切れないほど、自分ルールが存在しました。
それもエスカレートしていき、
ほんとによくないことだけど、
一週間で8キロ痩せれなかったら辞める。
など
身体にも鞭を打ち続けて
全てのルールを守ってきたから僕は役者を辞めていないし。
命を懸けて、全てを犠牲にしてきたので
役者をやめることはできません。
誰かに媚びを売ることは一度もしなかった。
そうじゃなくて、
現場で、魂の強さで人間の濃さで強さで
仕事をまたしたいと思ってもらいたかった。
舞台を辞めて
仕事がなくなり
眠れない日々が続きました。
翌年、行定監督のオーディションが受かって
映画に出演できたときはとても嬉しかった。
オーディション会場で最後の一人になって呼び出されたとき
自然と涙が出ました。
その後も、兼ねてよりお世話になってた
同い年で同志の山下大裕監督にも
何度も映画に声かけてくれて
映像の仕事もたくさんもらえるようになりました。
また翌年には熊本地震があり
自分の夢を追えないと判断して
地元に帰ることにしました。
でも帰ってくるなと。
仲間達が言ってくれて
仕事の関係者も話を聞きつけて
話をしてくれたり
また行定監督が監督する
CMのオーディションにも呼んでくださり
それに通って
そこの現場のご縁でまたお声がけを頂くようになりCMの出演本数が
かなり増えました。
チャリティーに参加したりと
俳優として地元を支えてあげろと。
たくさんの人たちがオファーをくれました。
そんな僕の気持ちを汲み取って
マネージャーの方々事務所スタッフの方々も
とても、とても頑張って仕事を
取ってきてくれて去年からからとても
充実し始めていました。
そして今年はいままで1年の目標と共に決めてる
目標漢字を今年は
『実り』としました。
初めてそんな大きな目標漢字にしたのは
勝算があったからです。
現場で僕をリピートしてくれる方々が増えて
自分の実力を認めてくれる方々も増えて
自分にも自信が初めてつき始めました。
今年で10年。
まだまだ10年です。
それでも今年は何かが大きく動くと。
そんなざわざわが止まりませんでした。
1月からとても忙しい日々が続いて
各方面から
大きな案件もガツっと入ってきましたが、
予期してたものだったので
準備は万端でした。
そしてその大きなチャンスを掴もうと、
もう掴めるところまできて
苦渋の決断で
今日は自分の中の自分を殺してしまいました。
何か大事なものが死んでしまうような
そんな苦しさがありました。
トイレで悔しさのあまり動けなくなりました。
それだけ人生を注ぎ込んできたので
想いが強すぎて、
鹿児島の南大隅町に祖母は住んでいたんですが
先週亡くなって。
決まればすごく
喜ばせてあげれるくらいの
大きな大きな大事な仕事でした。
うまくいかない事ばかりです。
そんなのわかってます。
この選択で笑える日がくるとか
後悔するとか
どうだっていいけど
一つの仕事に対する僕の想いは
僕だけのものだけではなくて
たくさんの想いが募っているご縁なので
色んな人達にも申し訳なくて、
とても、厳しい選択になりました。
帰りに、マネージャーの方に
申し訳ございません。と
何度も頭も下げて頂いて
その言葉の重みもすごく感じました。
10年ずっと見守ってくれて
応援してくれて辛い時も
大変な時も話を聞いてくれて
16歳の若造をここまで成長させてくれました。
気持ちは前しか向いてないし
いまある仕事を全力でやり切りますよ。
ただ、今日この日を忘れることはないし、
まだ諦めてないっていうこと。
だから、死ぬ気でやります。
長くなりましたが、
読んで頂いてありがとうございます!
これからもひたむきにがんばります。
頑張ってれば必ず誰かが見てくれて
引っ張りあげてくれます。
油木田一清